徳川家康「人心掌握」のためなら裏切りも水に流す!? 戦国最強のタヌキ親父が「最後に笑った」これだけの理由

2023.09.02 WORK

歴史上のえらい人たちって、みんな、天才に生まれついた上にものすごく努力をしたんでしょ、そんなの私が同じようにできるわけがない。何の参考にもならない……と普通は思いますよね。

 

よくよく人物を研究すると、意外にそうでもないんです。「結果的に成功した」人が後世に伝わっているのであり、ひとりひとりがやってることを見ていくと「えっ、こんなに地味なことの積み重ねなの?」と思うようなことも多々。

 

たとえば江戸幕府を開いた初代将軍、徳川家康もその一人。

 

不遇な時代が長かったにもかかわらず、しのび続けて最終的には天下を治めることとなった徳川家康、一体何が成功の秘訣だったのでしょうか?『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(加来耕三・監修、ねこまき・画)から抜粋編集してご紹介します。

 

三河一向一揆で、家臣がまっぷたつに。「おまえまで敵になるのか!?」

徳川家康には、「三河以来」といわれる結束の固い譜代の家臣団が存在しました。譜代とは、代々その家に仕えてきた、絆の強い家臣たち。家康の祖父や父の代から、本領の三河(現・愛知県東部)でずっと家臣だった家柄の武将たちです。

 

豊臣秀吉は家康に、「わしには譜代の家臣はおらん。家康どのはいいなあ」と語ったともいいます。長く苦楽をともにし、地元の縁で結ばれた主従関係は強いものと思いがちです。ところが家康の人生のスタートは、家臣の相次ぐ裏切りに苦しめられた日々でした。

 

長らく今川家の人質として三河を離れていた家康は、自領とはいえ新参者の主君。とりあえず体だけ復帰したところで、いきなり三河一向一揆が勃発。西三河を中心に一向宗(*)門徒が多かった三河で、1563年に起きた一揆です。徳川家臣にも多くの一向宗信者がいました。

*浄土真宗の門流。戦国時代、東海、北陸、近畿地方で急速に広まり力を持った。

 

そこへ一向宗から領主と戦うよう檄が飛び、家臣団のなかでも一向宗派と家康派が真っ二つに分かれました。

 

「なんと! これほどの家臣がわしの敵に!!」と、家康もびっくり。後年、家康の参謀になる本多正信、「徳川十六神将(*)」に列する渡辺守綱、蜂屋貞次、譜代の家系の夏目吉信など、そうそうたるメンバーが一向宗側についています。激闘の末、一揆は鎮圧されますが、反乱に与した家臣を家康はおおむね許しています

*家康の家臣のなかで、とくに功績をあげた16人。

 

過去の裏切りには執着せず、「徳川の家はこれから。罰よりも寛容さを大切にしよう」という家康の割り切りの早さ、度量の広さが、「徳川家臣団伝説」を生んだといえるかもしれません。

 

仕事で大きな失敗をしたとき、上司がそれを許してさらに重く用いてくれたら、その部下は今までの何倍もがんばりますよね。

家康は過去の経緯にとらわれることなく、これからを考えて部下に接する、人情の機微をよくわかったリーダーでした。

 

▶見習いたい「次行こ、次!」の精神

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