子どもを産んだ友人と生まない私の間にできてしまう目に見えない溝の正体はいったい何なのか
「子どもが生まれた友人と疎遠になっていってしまう」問題、誰しも経験があるのではないでしょうか。
そんなことは私には起きないと思っていたのに、やっぱりそうなってしまう。その理由はいったい何なのでしょう。
SNSバズ常連の若き恋愛評論家・ジェラシーくるみさんの新著『そろそろいい歳というけれど』からお届けします。
母になった友人
「女友達はライフステージが変わると疎遠になる」
よく聞く定説だが、そんな人間関係は、もとからまやかしの友情だと思っていた。
実際、遊ぶエリアもお休みも初任給も違う学生時代の友人たちとは、みんなでなんとか時間と場所を合わせて集うことができたし、口を開けば懐かしい思い出話から近況報告までノンストップでしゃべり倒し、お店の人に閉店を告げられるまで時間に気づかない、なんてこともしばしば。
定番の色恋沙汰や下世話な話に始まり、最近見た映画の話、親孝行旅行をした話、買うか迷っているコスメの話、転職や資格勉強の話など「女3人寄ればかしましい」とはよく言ったもので、泉のように絶えず話題がわき出てくるのだった。
学生時代の女友達と言っても、出自や職業、趣味はバラバラ。私たちはトークテーマを通じてつながっているのではなく、相手自体に興味を持っている。だからおばさんになっても、おばあちゃんになっても大丈夫だと思っていた。
グループのうち誰かが「お母さん」になっても、きっと同じテンションで話せるはず、と。
25歳あたりで訪れる第一次結婚ラッシュ。
高校や大学、会社の同期などそれぞれの女友達グループからめでたく既婚者第1号が輩出されたときは、みんなで盛大にお祝いをした。
メイントピックは、感動的なプロポーズの話や、両家顔合わせで大変だった裏話など。
なるほど、求婚の際はダミーリングで済ませ、後日、一緒に好みの指輪を買いに行く方法があるのか、両家顔合わせではお互いの両親がタブーな話題を出さないよう事前の根回しが大事なのね、など自分たちにも訪れるかもしれない将来に備えての勉強も兼ね、記者会見のごとく主役を質問攻めにした。
記念日にホテルのディナーに出かけたあと、帰宅するのかと思いきやサプライズで部屋に案内され、好きな色のバルーン装飾を施したスイートルームで指輪パカをされた、彼がデザインしたフォトブックを渡され、自分たちの軌跡を振り返りながら最後のページをめくるとプロポーズの言葉が書いてあった、とか。
お相手となるパートナーについても、交際期間からずっと間接的に話を聞いていたり、顔見知りだったりするので、「部屋の装飾するなんて、アイツ頑張ったな!」「これはデザイナーの彼にしかできない方法だね、さすがだわ」なんてプロポーズ現場の写真を見ながら、そこにはいない彼氏を称えて盛り上がりもした。
世の中で言われるようなマウンティングや妬みなんてものは存在せず、ただ彼女の幸せな瞬間を一番近くで共有できるのが嬉しかった。そのカップルの大変だった時期も知っているため、これまでよく頑張った、これから楽しめよ!という気持ちでいっぱいだったし、結婚をゴールと思うほど、私たちは幼くもなかった。
それからは「プレ花嫁」の#タグでSNSを一緒に徘徊し、このドレスが似合いそうだね、と親戚のおばさんのように勝手にコメントをしていた。
「ライフステージが変わると疎遠になる」説を初めて体感したのは、彼女たちの結婚生活が始まって1年ほどたった頃だった。
夫の親族のツテで安く住めることになったから、と郊外の一軒家に引っ越した子。夫婦ともに会社勤めで与信のあるうちに家買っちゃった、と隣の県にマンションを買った子。
住む場所が変われば、生活圏内に適応するようにライフスタイルも変わる。車を買ったりペットを飼い始めたりすると、休日の過ごし方もガラッと変化し、夫婦で作る新しい「暮らしの軸」ができ始める。
自分や夫の転勤で物理的にはるか遠くに行ってしまうパターン以外に、なぜか会いづらくなることがあるのだな、と初めてそこで実感した。
また、家賃や生活費をお互いに出しているDINKS(共働き子なし夫婦)であっても「週末は夫のご飯を作ってあげたい」と、「彼女」から「妻」モードに自ら役割意識を切り替えた人もいた。
夜にSNSを開き、友人の投稿の「今日は生姜たっぷりホタルイカの炊き込みご飯と春キャベツの鶏つくね」の文字を見てグーッと鳴るおなかを押さえながら、ふと昔読んだ女性誌の連載を思い出した。
30~40代女性をターゲットにした雑誌の特集で、働く女性3人のインタビュー企画だ。「女(30代・独身)」「妻(30代・既婚子どもなし)」「母( 30 代・既婚子どもあり)」の3人の女性が、自分の毎日のスケジュール、仕事やライフスタイルについて紹介するものだった。
その頃、私は卒論のリサーチをする際に、国会図書館で色々な女性誌を読みあさっていたのだが、「今月の女代表」「今月の妻代表」「今月の母代表」といった具合に30代の女性が3カテゴリに分けられているのを見て、少なからず衝撃を受けたのを覚えている。
同じ有職女性でも、独身、妻、母親でこんなに様相を異にするのか、と。
「妻」の見開きでは夫との向き合い方、「母」の見開きでは子どもとの過ごし方や家族時間について紹介されていた。
独身女性が「女」と形容されてしまうことにも多少の違和感を抱いた。もちろん、どれかの立場をとりたてて称賛するような描き方はせず、それぞれの女性が抱く将来のビジョンや、仕事での活躍を魅力的に描いたものだったが。
私はその特集を目にして初めて、「いつか結婚すれば、妻としての顔、母としての顔を持つようになるのか」という自覚が芽生えたのを覚えている。
そして、どうして女性だけ、という憤りに近い感情も覚えた。3つの役割を担いたいなどとは到底思えなかったからだ。
男性向けのメディアで「男」「夫」「父」それぞれの立場から特集したものがあるかと検索してみたものの、該当するものは見当たらなかった。
次にこの特集を思い出したのは、学生時代の友人たちとの会合だった。
1年に数回、不定期に集まっていたのだが、一人が20代半ばで出産を経験してからは全員揃うことがなかなか難しくなっていた。
とはいえ、もう10年以上の仲。会わない期間があろうとあまり気にしてはいなかった。
それより、彼女がほぼワンオペで育児を回していると知って心配する気持ちや、顔見知りの夫に対する腹立たしさのほうが強かった。
子どもが生まれてからは、近くに住んでいる親に子どもを数時間だけ預けることもあったが、親御さんも仕事や介護でなかなか時間をとれず、今までのように数日前にみんなで予定を決めてサクッと会う、なんてことは難しかった。
Go Toキャンペーンの時期にホテルで宿泊女子会をしたときも、彼女はみんなが昼からラウンジで食べて飲んでくっちゃべっている時間には間に合わず、夜に合流し、徹夜でマシンガントークを繰り広げ、一睡もせずにシャワーだけ浴びてとんぼ返りという驚異の鬼スケジュールで私たちに合わせてくれた。
早朝5時の始発で帰る彼女の姿を見ながら、「親が近くに住んでいても、めちゃくちゃ大変そうだな」と無責任にぼんやり思った。
次は子連れで遊べるスポットで会おうという話になり、大きめのカフェなどを探してみたが、昼から予約できるカフェがホテルのラウンジのような場所しかなく、場所選びに苦戦していた。お店選びが好きな自分としては、鼻息を荒くして色々なカフェ候補を出してみたものの、「子連れ 友達 遊ぶ場所」「子連れ ランチ」などで検索してみてもちょうどいい場所を見つけるのが難しく、自分の生活が幼児を育てる親たちとどれほどかかわりがないか、痛感することになった。
結局、公園でなら会えそうということになり、都内の大きめの公園で待ち合わせをした。
遅刻してしまった私の他、友人3人と子どもはカフェで軽めのランチをとっていた。私は子どもと一緒に走り回るかもしれないと気合を入れて運動靴を履いて合流したのだが、ご飯を食べたあとの子どもは眠そうで、ベビーカーでうとうとしていた。
自己紹介がてら話しかけたが、厚化粧のせいか怖がられてしまったため(当然)、ベビーカーを押す彼女の隣を歩きながら、久しぶりに吸う緑の空気を楽しむことにした。
春の午後3時。日ざしはのどかで暖かく、向こうのほうに綿雲の群れが浮かび、久しぶりに見る広い空が目にまぶしかった。
並木道の途中で、「もう少しで寝そうだから、ちょっと遊ばせて昼寝させてくる」と私たちに声をかけて遊具のほうに行く彼女。小さい子は眠いと不機嫌になるそうなので、私たち3人は子どもが寝るまで木陰のベンチで待っていることになり、何の疑問も持たず親子の姿を見送った。
30分ほどたったのち、遊具のほうに様子を見に行くと、大樹の根本を囲うような丸い腰掛けに座っている彼女を見つけた。
その瞬間、公園に満ちていた色とりどりのざわめきが遠のいた。彼女の周りが背景と化して、急にスローモーションになった。映画やドラマでよく見る象徴的なシーンに施されるような演出が、自分の身に起きたのだ。
目を閉じながら、細い腕で3歳足らずの小さな娘を抱き締める彼女から目が離せず、その空間が神聖な何かに守られているような気がして、どうしても近づくことができなかった。
上下する小さな丸い背中に、とん、とん、とん、と添えられた大人の手。明確に覚えていないはずの、母や祖母の温かい手がなぜか思い出され、急に鼻にツンときた。
授業中に居眠りをしていたあの女子高生の顔ではなく、すべてを和らげ、押し鎮めるような母の表情に胸を打たれた。
私に絵を描く力があれば、あの光景を今すぐにでも再現できるほど、今も鮮明にまぶたの裏に焼きついている。
寝かしつけを邪魔しないよう私たちは公園を練り歩き、彼女に連絡だけ入れたが、その数分後に「先に帰る」という連絡をもらった。
「こんな遠くの公園なんかに来させてごめん、でも会えてよかった」という言葉がついていたが、それ以降返信はなく、今生の別れを告げられたような気分で、しばらく私たち3人は呆然と突っ立っていた。後から聞いた話だが、カフェで軽食をとったときも、彼女は子どもが料理を口に運ぶのを手伝ったり、口の周りやテーブルを拭いたりするのにかかりっきりで、みんなとあまりおしゃべりできなかったという。
それから数カ月後にLINEの既読がつき、連絡もとれるようになったのは本当によかったが、いまだにどうすればよかったのだろうかと途方に暮れることがある。2~3歳の子どもはみんな元気に走り回るものだと思っていたが、知らない大人とすぐ遊べるような子は珍しく、気分のタイミングや子どもの個性によってまったく違うらしい。確かに、知らない大人3人に囲まれて顔を覗かれたら、人見知りをしない子でも恐怖心を抱き警戒してしまうだろう。
当時は考えなしに反射的に返していたLINEのやりとりを見返してみると、自分の至らない点がどんどん浮き上がってきた。
一度決まった日程が彼女側の都合でダメになったとき、「子育て終わるまでは我慢するからみんなで遊んできて」「産む時点で友達と会えなくなることは覚悟しなきゃいけなかったし仕方ない」と彼女に言わせてしまった。
場所選びだって、私たちが彼女が住む街の最寄り駅まで行けばよかった。そこには彼女が通い慣れた公園やモールがあったはずなのに。
時間調整のときも、私たち3人は朝早く起きられる自信がないから昼か午後からにしよう、と無神経に依頼してしまった。それは彼女のいつものプランを崩すお願いだっただろう。
遅くても夕方には帰宅し、子どもにご飯を食べさせなければいけないため、本当は午前中に会って彼女との時間を確保すべきだったのだ。
小さい子には毎日の昼寝が必要で、できるだけ同じ時間に一定の昼寝をとらせないと夜の眠りに影響が出てしまうこと、子の生活リズムは親がキープしなければいけないため、午前中にたくさん体を動かし遊ばせて、昼寝を誘う必要があること。これらの知識について初めて触れることになった。
つまり、私たちの知識や配慮が足りなかったせいで、彼女に申し訳なさやいたたまれなさを感じさせてしまう結果になった。一番気を遣わなければいけない人に気を遣わせてしまったのだ。
子どものいる友人は、ほぼ全員が0~3歳の乳幼児の母だが、その出来事以降、彼女たちのSNSを注意深く見るようにしている。
月齢にもよるが、乳児の母の投稿では「久しぶりの一人時間」と家で食べるハーゲンダッツや近所のスタバの写真、「○カ月ぶり!」と美容院の写真が多い。
だが外出の頻度は人によって大きく異なり、育休中のママの中には産後2~3カ月のうちに一人でお出かけする人もいれば、一人での外出は1年以上ご無沙汰、という人もいる。
どの母親だって自由時間が欲しいはずなのに、一体どうしてこうもばらつきがあるのか不思議に思い、もう少し深く調べてみた。
どうやらこれには、①母子の健康状態、②子を預けられる態勢とキャパシティ、③本人(母)の考え方の違いが背景にあるようだ。
①母子の健康状態
子どもは生後6カ月で母親の胎盤から譲り受けた抗体が減り始め、風邪や感染症にかかりやすくなる。大人に比べて免疫システムが未熟なうえに、乳幼児特有の病気もあるため、未就学児のうちは常に誰かが子どもの体調をウオッチしていなければならないという。また、出産後の母親の体がもとの状態に戻るまでの6~8週間を「産さん褥じょく期き 」と呼ぶが、その後もホルモンバランスや睡眠不足などの影響で体調が戻らない人も少なくない。今では一般的に知られるようになった「産後うつ」もおよそ10人に1~2人の割合で発症しているそうだ。
母親の自由時間やお出かけ時間の要件としては、子どもを誰に預けるかという問題以前に、母親の体が完全に回復し、精神も健やかで、子どもの健康状態も現状問題がない、というなかなかハードで時間のかかりそうな前提が必要のようだ。
②子を預けられる態勢とキャパシティ
「子どもを見てもらう」と聞いて真っ先に思い浮かぶのはパートナーだろう。だが男性の育休取得率は約14%(2021年度)と依然低く、2週間未満の取得が過半数を占める。そんな瞬間的な休暇はただのお盆休みじゃないか、というツッコミはさておき、「育児は親(父母)がコミットするもの」という認識自体は一般的になってきたように思える。
だが問題は、乳児の頃から慣れ親しんでいない限り、男性はお世話の手順も赤ちゃんへの接し方もわからないことだらけだということ。だから、せっかく妻を家から送り出しても「全然泣き止まないんだけど助けて!」と外出先の妻を呼び戻してしまうケースが多発するのだ。
女が母になるのは子をおなかに宿した瞬間、でも男が父になるのは子どもが生まれたとき(もしくはそれ以降)という言説はよく耳にする。当然、妊娠時や出産後についての調べものは母親が担い、夫婦間では情報や行動量がまったく違うことになる。
養育のメインも母親になることが多いので、相手の識別ができる年齢の子どもだと「ママじゃなきゃイヤ」とパパや他の大人を嫌がる場合もある。「夫育て」という言葉もあるくらいで、夫から育児サポートを得られるかどうかは、普段からの夫の育児参加や子どもとの相性によるのだ。
育児というものは、最初から継続的に携わっていないと難しいうえに、体もホルモンバランスもボロボロの母親が赤ちゃんの扱い方を夫に教えるのは無理な話だ。
このように構造的な問題が背景にあるため、たとえ夫が多少協力的であっても、「じゃあ、来週末よろしくね」とはいかないわけだ。
また、両親や義父母が健在で、幸い近くに住んでいる場合でも、介護や仕事で忙しくないか、孫を見る身体的・心理的余裕はあるか、そもそも預けられる関係性か、子ども嫌いでないか、という問題がある。
とある共働き夫婦は、2人の未就学児を抱え、どうしても家事まで手が回らず、部屋も荒れ放題で自分たちの心も危ない……と危機感を覚え、地方から夫側の母親を呼び寄せ、育児や家事のサポートを数カ月にわたり泊まり込みでお願いしたという。
それまでは毎日のように夫婦ゲンカが続き、妻のほうはストレスで不眠になっていた。働きながらの育児の壮絶さを想像すると、「絶対無理!」と身が震える。
柔軟に動ける親族がいない場合は、サポートを外注する手もある。
ある家庭では、旦那さんの仕事が忙しく、どちらの親も遠方に住んでいるため、ベビーシッターと「産後ドゥーラ」を週2で活用し、なんとか妻のメンタルと「一人時間」を保っている。どちらも産後サポートをする人をさすが、産後ドゥーラはまだ認知度が低い仕事だろう。親の不在時に子どもを預かり、お世話をするベビーシッターに対し、産後ドゥーラは家事代行、育児サポート、母親のメンタルケアなど、養生が必要な母親を様々な面からサポートする仕事だ。「ドゥーラ」とはギリシャ語で「他の女性を支える、経験豊かな女性」という意味を持つ。一般社団法人ドゥーラ協会の講義・実習を経て認定される職業で、ほとんどが子育てを経験した先輩ママたちだという。
親族や近隣住民、地域による育児サポート・母親ケアが当たり前のように存在していた昔と違い、核家族化や近隣付き合いの希薄化、親世代の高齢化が進んだ現代。今の社会においてこそ、産後ドゥーラは注目されている概念だ。
ベビーシッター、産後ドゥーラともに有料で、経済的な負担も小さくはないが、国や自治体による利用支援制度や助成金があり、福利厚生の一環として取り入れている会社もある。
他に産後ケア施設、自治体のファミリーサポートセンターなど、子どもを一時的に預かってくれる施設もある。
③本人(母)の考え方の違い
同じ月齢・年齢の子を持つ母親でも、どうしてこんなに自由時間や負担の違いが生じるのかと言うと、実はこの「母としての考え方」が一番強い要因ではないかと考えている。家でじっとしているのが苦手なアクティブ派で、頼り上手な知人は産後2カ月で親やサポート制度をフル活用し、育休の間でも昼間に友人と買い物をしたり、夜ピアノのコンサートに出かけたり息抜きの時間をとっていた。
一方、人に頼るのが好きでない人や、そもそも「赤ちゃんのうちに誰かに預けるのはかわいそう」「親に預けて外出しても、ずっと心配でそわそわしてしまう」という感覚を持つ人もいる。彼女たちにとっては、人のサポートを受けて自由時間を優先する、ということ自体がむしろストレスになってしまうのだ。この考え方の違いに優劣や順序はなく、文化や宗派の違いのようなものなのだろう。「体が回復したら絶対、人に預けて自由時間を確保する!」と思っていたが、いざ子どもが生まれてみると考え方や感じ方が変わったという人もいる。
このように産後の生活について軽く調べるだけでも、「小さな子を持つ友人の自由時間・外出範囲」には①~③の要因、あるいはそれ以上の不確定要素と環境が関係していることが〝想像〟できる。
かつての私のように「夫に見てもらえばいい」「近くにいる親に預ければいい」という勝手な期待を持って育児中の友人に接するのは、大間違いだったのだ。
だが、机の上でどんなに調べても、どんなに頭を働かせ想像してみても、自由気ままな独身の私に、育児真っ只中の友人の気持ちがわかるとは思えない。
正直、公園で遊んだ当日に本当は友人とその娘にどう接してほしかったのか、私たちはどう振る舞うべきだったのか、彼女が疲れ果てて帰宅する前に彼女からの情報開示があってもいいじゃないかと思ったときもあった。だが、今、振り返ってみると、本人に「どうすればいい?」「どうしたほうがいい?」と雑に聞いたところで、彼女には語り得ない何かがあったのではないか。
たとえ親しい間柄であっても、想像が難しい何かを抱えている相手に対し、「最近、忙しい?」「今年中にもし会えたら嬉しい! みんなで集まろう」と声をかけるときには、もっと慎重になるべきだっただろう。
腫れもののように扱うのは相手にも失礼だが、暮らしぶりがガラッと変化した人間を、〝こちら側〟のテンポとテンションで今まで通りのやり方で遊びに誘ったことに対し、胸を張って「誠実だった」と言える自信はない。
少しでもそこに考えを巡らすことができれば、当日の午前中に集まり、子どもとみんなで楽しい時間を共有することができたかもしれない。
結婚して子どもがいる女友達と疎遠になるのは、決して「幸せマウンティング」などではない。
人生には、いいときと苦しいときがある。どのライフステージにいてもそれだけは変わらない。私たち女性の間でライフステージの違いにより分断が生まれるのは、幸せではなく互いの苦しみを共有できなくなったからだ。
「何でも言ってくれればいいのに」「何でも頼ってほしい」と相手の立場に寄り添おうとする姿勢は確かに正しい。だが、言葉を尽くしても共有し得ない苦しみや事情がそこにあるときは、相手の望む分の距離を置いたまま、遠くから黙って見守る優しさのほうが大切だと感じる。
自分がされて嫌なことはするな、と教えられてきたが、今後の人生では相手がされて嫌なこと、苦しいことを相手の性格や立場に立って考える練習が必要になってくるのだろう。それが相手の口から語られる前に。
自分の過去の振る舞いを恥じながらも、「女友達はライフステージが変わると疎遠になる」と同じくらいによく聞く定説を私は信じ続けている。
「でも、女友達は人生のどこかでまた合流する」
ジェラシーくるみの最新刊、12月22日発売!
『そろそろいい歳というけれど』ジェラシーくるみ・著 1,540円(10%税込)/主婦の友社
昼はしがない会社員、夜は遊び人として、人気の恋愛コラムニストとして活躍する著者の25歳以上生き方本。初の著書『恋愛の方程式って東大入試よりムズい』(主婦の友社)は、恋愛理論や人生哲学がSNSで話題となった。前作で恋愛を勝ち取るための真実を鋭い洞察力と刺さりまくる言葉で伝えた人気著者の第2弾。今度は25歳以上に向けて、恋愛・結婚・出産・子ども・家族、女友達、仕事・キャリア・お金・将来に迷うあなたのために、どう考えるのか、どう行動するのかを31のテーマとともにお伝えします。日々充実しているけれど、私の人生、これでいいんだっけ?がグイグイと迫ってきて、モヤモヤする、悩んでいるあなたのための1冊です。普段フォロワーから多く寄せられるお悩みにも答えています。不安と葛藤にぶん回されるアラサーのための一冊」。
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