桂小五郎「あり得ないにもほどがある」勝ち続けるための手段とは?幕末の剣豪「負けなければすべて勝ち」の強メンタルに学ぶもの
歴史上のえらい人たちって、みんな、天才に生まれついた上にものすごく努力をしたんでしょ、そんなの私が同じようにできるわけがない。何の参考にもならない……と普通は思いますよね。
よくよく人物を研究すると、意外にそうでもないんです。「結果的に成功した」人が後世に伝わっているのであり、ひとりひとりがやってることを見ていくと「まじですか????」と思うようなことも多々。
たとえば幕末の剣豪、桂小五郎もその一人。
確かに剣豪なのでしょう、しかし私たちが考える「剣豪」とはちょっと意味合いが違ったのかもしれない……? 『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(加来耕三・監修、ねこまき・画)から抜粋編集してご紹介します。その実態たるや、恐るべきものでした。
「負けない」、確かにそれは事実かも。なぜなら「逃げに逃げまくる」剣豪だったから!
長州藩(現・山口県西部)から20歳で江戸に私費留学、江戸三大道場といわれた練兵館に入門し、一年で塾頭となり、幕末の志士たちの間で「剣豪」として名を知られた男──。
そう聞くと、幕末の志士・桂小五郎(維新後に改名し木戸孝允に)は、「敵をバッタバッタと斬り倒す剣の達人」と思われそうです。しかし、小五郎が実際に剣を抜いたという話はありません。身に危険が及んだときは、とにかく逃げに逃げたのです。
幕末に薩摩藩(現・鹿児島県と宮崎県南西部)と並んで討幕を成し遂げた長州藩。とくに長州藩の中心人物と見なされていた小五郎は、1864年の池田屋事件で危機一髪の出来事に遭遇します。池田屋事件は、幕府側の新選組が旅館の池田屋に集まった長州藩や土佐藩など過激派の尊王攘夷(*)の志士を取り締まり、捕縛した事件です。長州藩の大物である小五郎は、新選組がもっとも捕縛したい人物でした。
*天皇を尊び外国を打ち払う思想。開国した幕府に対する反対派が主張した。
しかし、小五郎は池田屋への到着が早すぎて人が少なく、いったん対馬藩邸の友人に会いに行ったところ、事件が起こったといいます。新選組に捕まった志士たちは生命を落としたり負傷したりした者が多かったなかで、なんと運のいいことでしょう。持ってる人は違います。
でも、「桂小五郎は池田屋より屋根伝いに対馬藩邸に逃げた」とする長州藩士の手記(誤報)もあり、この頃から「臆病者」「逃げ上手」という悪評も出始めたようです。
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