徳川家康「人心掌握」のためなら裏切りも水に流す!? 戦国最強のタヌキ親父が「最後に笑った」これだけの理由
メゲそうになる困難も柔軟に受けとめ、プラスに転じる。家康流「気持ちの切り替え方」とは
三河衆の心を束ねた家康でしたが、そのあともまったく無風だったわけではありません。
もっとも衝撃が走ったのは、家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦いが終わって間もない1585年、重臣・石川数正が、敵対する豊臣秀吉方へ出奔した一件でした。
家康が人質時代から仕えてきた数正は、三河一向一揆で自身の父・康正が敵対したときも、自分は改宗してでも家康を支えた忠臣。まさかの裏切りに家康も、「どうする?」と驚いたことでしょう。出奔の理由はいまだに謎とされますが、秀吉方との折衝役を任されていたため、家臣団から浮いてしまった、秀吉から高禄で誘われたといった諸説があります。
といって、家康はショックや感傷を引きずってはいませんでした。もっとも外部に漏れて困るのは、徳川の軍制。すべてを知っている数正が敵方へ行ってしまったため、軍政を改める必要があります。家康は滅亡した甲州武田家の遺臣たちをかねてから大量採用していたので、彼らを登用し、甲州流に軍制を改めました。
人間は、どうしても過去の経緯にとらわれがちです。ところが家康は、過去のマイナスを未来に向けてプラスに転じる能力と性格の持ち主でした。天下人家康の最大の武器とさえいえるかもしれません。その能力が最大規模で活かされたのは、秀吉に命じられ、1590年に元の領地の「東海5ヵ国」から北条氏滅亡後の関八州に領地替えになったときです。
▶難事業に直面した家康は…
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