坂本龍馬は「組織の中でうまくやろうと思わない」性分だった!? 広い視野で幕末を泳いだ「本当に自由な生き方」とは

2023.09.04 LIFE

歴史上のえらい人たちって、みんな、天才に生まれついた上にものすごく努力をしたんでしょ、そんなの私が同じようにできるわけがない。何の参考にもならない……と普通は思いますよね。

 

よくよく人物を研究すると、意外にそうでもないんです。「結果的に成功した」人が後世に伝わっているのであり、ひとりひとりがやってることを見ていくと「あれ?結構お手本にしやすいかも…」と思うようなことも多々。

 

たとえば小説やドラマで大人気の維新の志士、坂本龍馬もその一人。

 

高い人気を誇る反面、事跡の真偽をめぐって議論されることも多い龍馬。実際にはどんな人だったのでしょうか?『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(加来耕三・監修、ねこまき・画)から抜粋編集してご紹介します。

 

藩士の身分ではなく、今でいうところの「フリーランス」でした

対立していた薩摩藩と長州藩の仲立ちをし、薩長同盟を成立させたといわれる坂本龍馬。彼は土佐藩(現・高知県)を無断で抜け出した脱藩浪士でしたが、薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎(木戸孝允)という雄藩の重役の知己を得て、活躍します。

 

幕末の大物志士はみな藩士の身分なのに、龍馬だけがなぜ、藩の後ろ盾を持たない浪士の身で、日本を動かすような仕事に参加できたのでしょうか。

 

坂本家は土佐の豪商・才谷家の分家で、龍馬は長男と3人の姉のあとに末っ子として生まれました。裕福な家庭で女兄弟に囲まれて育った少年時代は、泣き虫だったといいます。しかし、すぐ上の姉・乙女に鍛えられ、道場に通って剣の腕を磨くうち、たくましく成長しました。

 

1861年、27歳になった龍馬は、友人の武市瑞山が主宰する土佐勤王党(*)に入りました。藩の外で国事に奔走するなかで、外の世界に目が開かれていった龍馬。この頃党内の活動が過激化し、土佐藩の重役・吉田東洋を暗殺するなどの事件を起こしました。「目的のためなら人殺しもするやり方にはついていけん」と、龍馬はその動きを批判的に見たのです。

* 尊王攘夷をかかげて結成された党。

 

翌年、龍馬は脱藩し、浪士として幕末の動乱期に何かをなそうと志します。しかし、当時の龍馬には具体的な目標はなく、とりあえずカンに頼って組織を飛び出した感じでした。

 

▶フリーになって、一気に人脈が広がった!

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