どうして東大には美人が多いのか? 今だけでなく、昔からそうだったかというと…⁉
スポーツではレベルの差に言及してもいいが、勉強では言及しづらい
さんきゅう「うちの大学には、カバディのサークルとカバディ部(※)があるじゃない。どうして部を選んだの?」
※本人の特定を避けるためスポーツを変更しています。
友人A「サークルも参加したけど、よりレベルの高いところで練習したかったから」
友人B「ふむ」
さんきゅう「・・・・・・・スポーツでは、レベルが低い高いって聞いてもなんとも思わないけれど、勉強で『レベルが高いところに行きたい』と聞いたら不快に思う人がいるかもしれない。この違いはなんだろう」
友人B「スポーツは、1対1、多対多で結果が決まる競技がほとんどだよね。勉強の良し悪しは一意に定まらないからじゃないかな」
友人A「偏差値は一つの基準だと思うんだけれど、偏差値が高い高校に行きたいと言ったら不快に思う人がいるかもしれない」
さんきゅう「偏差値至上主義への嫌悪感があるのかな。良い物理の先生がいる高校に行きたいとか、数学に力を入れている大学に行きたいとか、そういう具体的な科目を示すと不快な感じはしないよね」
友人A「やりたいことがないけれど、とりあえず東大を目指す人とか自分の実力の中で高い偏差値の大学を受験する人は、その理由を“偏差値”や“レベル”で表現すると、悪い印象を与えるよね。やってることは当たり前で、自然なことなんだけど」
友人B「勉強って、全ての人が自由な意思なく参加させられていることに、スポーツとの差異があると思う。スポーツはそのスポーツをやりたい人だけがやってるじゃない。自主的に競争に参加してるよね。勉強は社会システムの中で強制的にやらされて、本人の意思とは関係なく通っている学校に偏差値がつけられ、競争に参加させられているよね。勝手に参加させられた人たちは頑張らない。だから結果が出にくいのは当然だよね。その人たちを含めて『レベルが低い』と断ずるから不快なのかもしれない」
さんきゅう「そうかもしれない!」
大学での学びは、正解が一つではないことがほとんどです。他者の意見を聞き、自分の意見や行動を修正し続ける習慣が重要です。結論を出すことより、その過程に現れる知識や考え方が東大生の素晴らしい部分だと感じます。
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