平坦すぎる毎日、衰えていく自分に絶望する必要はたぶんない、きっとパーティは勝手に向こうからくるから(後)
大学生のアキさん、高校生のルミさん、2人の娘を持つ個人投資家・文筆家の澤田信之さん。「予測を業としてきた自分にも、彼女たちがこれからどのような時代を生きていくのかまったく判断がつかない」と語る澤田さんが、「生きる視点」を子どもたちに伝えるメッセージ書評です。前編『40代、驚くほど急に「中年が始まる」。元ファンドマネジャーがこれだけは伝えておきたい「大人の危機」とその回避』につづく後編です。
【父から娘へ書評#3『パーティーが終わって、中年が始まる』pha】後編
人生には自分に起因しない「変化」も訪れる。これこそが豊穣なのだと思う
内省的なものは価値観の変化で、そのとき一番重要だと思うことが変わることです。僕の場合は就職と独立がそれにあたります。僕は文学部だったので、周りは教員や研究者、出版を業として選ぶ仲間が多かったです。
僕は文学部生らしく、ヘーゲルからマルクスに入って経済学に興味を持って、ケインズやハイエクを読むようになりました。ミクロ経済学の価格決定理論である需要供給曲線がものすごく人間的なものに見えて、それが常時行われている金融市場に惹かれ、ファンドマネジャーという職業に辿り着きました。恥ずかしいのであまり人には話しませんが、当時流行していたファミコンに『松本亨の株式必勝学』というソフトがあって、それを友達とやっていた時に「これだ!」とひらめいた、という説もあります。
もうひとつ、50代での独立は、それまで重視していた「お金が一番」という価値観から解放されたのが理由です。いまでもお金は大切にしていますが、金銭的独立を得たことで断捨離ができるようになりました。
断捨離といっても物理的にモノを捨てるのではなく、やりたくないことをやらない自由を優先する、という意味です。ポイントは、「やりたいこと」ではなく、「やらないこと」を定めたところ。というのも、やりたいことだけやろうとすると結構大変なのです。週末のゴルフが楽しいのは平日の仕事があるからで、毎日ゴルフをやっても飽きてくるし、だいいち身体がもちません。2人に僕がどう見えているのか、とんでもないぐうたらに見えていないか聞くのは怖い気もするけど。
そして、ひとつ戻って、40代での親業。2人が生まれてきてくれたおかげでライフサイクルの転機が訪れました。ありがとう、お金のために働く会社員生活に変化と刺激を与えてくれて。
覚えておいてほしい、どうしても年齢を重ねると自分で変化を起こす力が減っていきます。でもそのことに失望しないで。僕の場合はそれ以上の変化と刺激が、子どもの存在によってもたらされました。子どもが大きくなるにつれて親業は変わっていきます。庇護者から教育者に、教育者からコーチに。そして2人が大きくなったいま、僕のコーチとしての役割も終わろうとしています。できればコーチから、次は友達になりたいものですが、そこは2人に任せますね。
毎日の暮らしの中に「パーティを見出していく」ということ
phaさんが「パーティが終わった」と感じているのはきっとその通りなのだろうと思ういっぽうで、冒頭でも書いたとおり「振り返るとパーティは形を変えてずっと続いていた」のではないかなというのがキャリアチェンジの多かった僕自身の経歴から思うことです。
誰しも自分の人生の中にパーティがあるのだと思います。多くの人は大学時代というパーティが終わって就職、新卒時のパーティ感が終わって結婚、さらに新婚のパーティ感も終わって子どもができて、とひとつひとつに「終わった感」を持って次のステージに行くのでしょうね。
でも、人生は案外と、ずっとパーティなんだと僕は思っています。繰り返される毎日は平坦に見えるかもしれないけれど、毎日違うイベントが起きるし、それを慈しむこともできる。
文中、phaさんは何かよいものが失われていくとき、若いころはとんでもない、これは残っていくべきだと思っていたのに、『四十代になってからは「失われるのは時間の問題だけど、要は自分が死ぬまで逃げ切れるかどうかだな」という視点が出てきた』と書いています。たぶん、その通り、逃げ切り続けてパーティが続くんだと思う。
そういえばその昔、僕が古本屋で買った本から板垣退助のお札が出てきたことがありました。誰かが栞代わりに使ってたんだろうね。
今はどこに行ったか分からないけど、もしかしたら書庫にある本のどこかに挟まっているかもしれません。書庫の本を全制覇したら見つかるかもしれません、よかったら挑戦してみて。街で使うと100円だけどね。ね、こういうイベントも、よく目をこらすとあるかもしれないよね。
チチより
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