「あなたがされていることはモラハラです」見知らぬ女性客のひと言で、私は夫から逃げる決意をした
そんなある日、開店と同時に女性客が2人、店にやってきました。とても楽しそうにビールで乾杯し、夫の料理を美味しそうに食べていました。しばらくすると、いつものように厨房から夫の怒鳴り声が聞こえてきました。夫は誰にも聞こえていないと思っていたようですが、Hさんには、その女性客たちにも聞こえているはずだとわかりました。
「早く外に水茄子を取りに行け!」
Hさんはそう怒鳴られ、慌てて店の外へ取りに行きました。その後、女性客が会計を終え、Hさんが見送りのために店の外へ出たときのことです。
一人の女性が、そっと耳元で言いました。
「あなたがご主人にされていることは、モラハラですよ。つらかったら、相談機関に行ったほうがいいです」
そして、女性支援センターの存在を教えてくれたのです。もう夫に逆らう気力すらなくなっていたHさんでしたが、赤の他人が自分のことを心配してくれたことに、希望を感じました。
「私は、モラハラの被害を受けているんだ」
そのとき、ようやく気づいたのです。
数日後、Hさんは支援センターを訪ねました。そこで担当者から、
「今まで、つらかったですね」
と声をかけられた瞬間、Hさんの目から涙があふれました。夫に怒鳴られ、義母から責められる毎日の中で、泣くことさえできなくなっていたHさん。それまで張りつめていたものが一気にほどけたように、涙が止まらなくなったといいます。自分がどれほどつらかったのかを、初めて誰かにわかってもらえた瞬間でした。
相談を重ねる中で、Hさんは料亭の仕事を紹介してもらいました。7年間、夫の店で接客を続けてきた経験があります。その料亭には寮もあり、そこで働くことができれば、息子と二人で暮らしていくこともできます。
勤務は朝から夕方まで。息子を学童に入れれば、夜まで店に立ち続ける生活からも離れられます。
仕事がある。
住む場所もある。
息子と二人で生活できる。
それまで「夫のもとを離れたら生きていけない」と思っていたHさんに、初めて現実的な道が見えてきました。
そしてHさんは、夫に離婚したいと告げました。
夫は激怒しました。
「お前みたいなバカが、何ができるんだ」
「お前なんて、一人じゃ何にもできないくせに」
「店はどうするんだ!」
そう怒鳴り、Hさんを殴ったのです。
これまで何度も怒鳴られ、否定されてきました。それでもHさんは、ずっと耐えてきました。しかし、殴られたことでHさんの気持ちは決まりました。
もう、この家にはいられない。
夫が店に出ている昼間、Hさんは息子を連れて家を出ました。
いわゆる「昼逃げ」です。
夫には行き先を知らせず、必要な荷物だけを持って、紹介されていた料亭の寮に入りました。7年間、夫の店を支え続けたHさんが、初めて夫のいない場所で生活を始めたのです。
料亭で働き始めて、Hさんがまず驚いたのは、誰にも怒鳴られないことでした。仕事をすれば、「ありがとう」と言われる。わからないことを聞けば、普通に教えてもらえる。失敗しても、人格まで否定されることはない。そんな当たり前のことを、Hさんはいつの間にか忘れていました。
「誰にも怒鳴られない一日って、こんなに穏やかなんですね」
Hさんは、そう話してくれました。
夫から何度も「お前には何もできない」と言われ続けてきたHさんは、少しずつ自信を取り戻していきました。
「お前には何もできない」と思わせることで、妻から自信を奪い、自分のそばから離れられないようにする。これも、モラハラによる支配のひとつです。
現在、Hさんは離婚調停中です。
これからどうなるのかは、まだわかりません。
それでもHさんは、
「私は大丈夫」
と笑顔で答えてくれました。
離婚調停の行方には不安もあります。それでも今のHさんには、働く場所があり、息子と安心して暮らせる場所があります。仕事が終われば、学童へ息子を迎えに行き、
「今日、学校どうだった?」
そんな話をしながら、二人で家に帰る。その時間が、今は楽しみなのだそうです。
休みの日には息子と出かけることもできます。夫の顔色をうかがうことなく、自分のために時間を使うこともできます。
「これからは、自分を大切にしていきたい」
そう話すHさんは、夫と一緒に暮らしていた頃の生気のない表情とはうって変わり、いきいきとしていました。
その目は、明るく輝いていました。
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