意外!? 「女城主」が禅の修行で教わっていたこととは…?
禅を修行して、自分の未来を予言する? そんなことが可能なのでしょうか?
禅の思想を下敷きにした思考術、マインドフルネスで、協調性や発想力が身につくことは、前にもご紹介いたしました。戦国時代にこの2つの能力を最大に生かしてできることとが、「外交官」と「軍師」だったのです。そして、戦国時代には、専門的に占いを教育している学校がありました。
戦国大名の多くは、そのブレーンに禅僧を起用した
戦国時代、僧侶の役割は多岐にわたりました。国を自由に往来できることから、外交官として他国に使者として出向いたり、子弟の教育に当たったり、また、治外法権だった寺に要人を匿ったりと重宝とされていました。
その中でも功績が大きく評価されたのが、「易」、つまり占いでした。
例えば、徳川家康が関ヶ原の戦いで連れていた閑室元佶は、その功績によって当時の五山の上とされていた南禅寺の住職に推されています。
それ以前にも、今川義元には雪斎が、織田信長には沢彦宗恩が、武田信玄には快川紹喜がそれぞれ付いていました。
なぜ臨済宗のお坊さんが戦国大名に仕えていたのか?
戦国大名に仕えていた僧侶は、多くが禅宗の中でも臨済宗の僧侶でした。なんででしょうか?
鎌倉時代に開かれた、いわゆる鎌倉仏教には、他にも浄土宗や浄土真宗、日蓮種などがあります。
その中でも臨済宗のみが注目されているのです。
その理由としてあげられるのは、戦国大名が、どうしても頼みにしたかった、占いなのです。
占いにも時代背景があります。平安時代には、かの安倍晴明で有名な陰陽師が活躍していました。しかし、悪い兆しがあれば外出せず、謹慎して追い払うという対処だったため、そのネガティブさから戦国時代にはウケなかったようです。
そんな中で大ブームになったのが、現在の栃木県にある足利学校で兵法と易学を学んだ禅僧の存在。日本最古の学校とも言われている足利学校ですが、占いを教えていたとは、驚きですね。
足利学校は完全に僧侶の養成学校だったので、一般の人も僧侶にならないと入学できませんでした。僧侶は仏教色を排した多岐にわたる勉学(三註、四書、六経、列子、荘子、史記、文選)を修め、ここで徹底的に儒学を学んでいたのです。そこから派生して易経を教え、医学や兵学も教えるようになりました。
そしてその就職先は、日本全国どの戦国大名でもウェルカム。大変に優遇されていました。
武田信玄は、推薦された僧侶が、足利学校卒業かどうかで信用できる結果を言うかどうか判断しています。
「もし、足利学校を出ているのであれば、いくら金銭を積んでも悪いことは悪いと言うだろう。もしそうでなければ、高額な報酬を前に、悪いことも良いことだと言いかねない」。と断言しています。
戦国武将の多くは禅寺に預けられた
有名な話を1つ。今川義元が、竹千代(後の徳川家康)を静岡の臨済寺に人質として置いた時、住職の雪斎が竹千代に書道から何まで指導をしています。今川義元は当初、雪斎に「竹千代が欲しいものは何でも与えてやれ、そうすれば歯向かうことのできないダメ人間になるだろう」。と言ったそうですが、雪斎はそうはしなかったという話です。
鎌倉五山の1位建長寺で修行したのは、江戸城を建てた武将、太田道灌でした。徳川家康が慕った武将の一人で、側室に彼の子孫を迎えています。
そして、浜松の臨済宗妙心寺派龍潭寺で修行したのがNHK大河ドラマの主人公「直虎」です。
先を見通す力を発揮する
直虎は、井伊家の頭首になると小野家の横槍を上手くかわして井伊家存続の方策を取っていきます。
具体的には、徳川家康の家臣団に井伊家を組み込みます。
女性でありながら家の存続をかけて、僧侶から城主に返り咲き、見事に役目を果たした、その人間性と先を見抜く力は、禅の修行で培われたものだと思います。
そして秘密の易に関する勉強もしていたことでしょう。ますます人物像に迫って見たくなりますね。
マインドフルに坐禅を体験してみよう
都内でも、城主がそうしていたように、坐禅を体験できるところが多くあります。
直虎の気持ちになって、座ってみてはいかがでしょうか。
臨黄ネット 東京都の坐禅会 http://www.rinnou.net/cont_02/kenbetu/13t.html
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