岩井志麻子 桜の季節に思う。女が「桜の木の下」に隠しているもの
この話はすでに別の本に書いているしテレビでも語ったけれど、どうしても今の季節になると思い出してしまうので、既出のものとは少し趣を変えてここにも書かせてもらう。
「夜空に桜」の七宝焼き
もう十年くらい昔になるが、女子刑務所に取材に行った。みなさん、それぞれの適性や能力に見合った作業を黙々とこなしていたが、一人の中年女性の作るものに目を奪われた。彼女は七宝焼きを作っていて、手元には帯留めがあった。
有名デパートの呉服売り場にあってもいいくらいの、素晴らしい出来栄えだった。楕円形の枠の中に、桜が一本。背景は真っ暗な夜空だ。なぜ背景を青空にしなかったのか、ふと気になった。青空より夜空の方が桜が際立つからかな、と自分で勝手に答えを出した。
夜空は彼女の心の表れか
後になって、もしかしたら彼女は桜ではなく夜空の方を主題にしていたのかもしれないと考え直した。桜の方が、夜空を引き立てるための背景ではないか。背景の、いや、主役の夜空は彼女の心の中を表しているように感じた。
彼女は夫をあやめて、無期懲役刑を受けていた。まったく別件で、親族をあやめた過去もあった。つまり無我夢中で気がついたら刺していたとか、突き飛ばしたら打ち所が悪かったとか、結果的に相手を死なせてしまった、という人ではない。
人を憎んだとき邪魔になったとき、そういう選択肢が最初から備わっていた人なのだ。
最後に桜を見たときは
見た目はまったく普通のオバサンだったが、彼女は何を想いながら桜を描いていたか。
無期懲役だから、もう目の前で桜を見ることは叶わないかもしれない。二度と見られない桜を描いたか。
刑務所に入れられる前に見た、娑婆の最後の花見を思い出していたか。
その桜を一緒に見たのは、もしかしたら自分があやめた夫だったかもしれない。
心の“桜の木”の下に、隠しているもの
桜の木の下には死体が埋まっているという、有名な言葉がある。だから桜はあんなにきれいなのだと。彼女は現実には、親族や夫の死体を桜の下には埋めてない。けれど心の中の桜の下に、今も埋めている。夜空が、覆い隠している。
それにしても、無期懲受刑者の作品の中の桜。もう十年くらい前にただ一度きり見ただけなのに、私の中にも根付いてしまい、毎年この時期には開花するようになった。私の中の桜も、いつも夜空を背景に咲き誇り、根元に何か怖いものを隠している。
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