前田慶次「人の顔色は伺わない」?戦国一の傾奇者に学ぶ「力まず生きる」方法とは
歴史上のえらい人たちって、みんな、天才に生まれついた上にものすごく努力をしたんでしょ、そんなの私が同じようにできるわけがない。何の参考にもならない……と普通は思いますよね。
よくよく人物を研究すると、意外にそうでもないんです。「結果的に成功した」人が後世に伝わっているのであり、ひとりひとりがやってることを見ていくと「あれ?結構お手本にしやすいかも…」と思うようなことも多々。
たとえば「日本一の傾奇者」として有名な前田慶次もその一人。
マンガやゲームなどに取り上げられ、世代を超えて愛される前田慶次、実際にはどんな人だったのでしょうか?『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(加来耕三・監修、ねこまき・画)から抜粋編集してご紹介します。きっと気が楽になりますよ!
傾奇者、それは「自分が信じる生き方」に忠実だった人たち
戦国末期から江戸初期にかけて、茶道や和歌に通じた風流人ながら、ド派手な格好をし、世間の常識を超えた行動をとる「傾奇者」といわれる男たちが存在しました。武士なら誰もが手柄を立てて出世したいと望む時代に、「オレはいいと思うことだけを信じ、好きなように生きるさ!」と自由であることや自分が信じる生き方に忠実であろうとした男たちです。
傾奇者の代表と評される前田慶次は、加賀百万石の大大名・前田利家の兄・利久の養子になった人物です。ところがその生涯や言動に関する記録は少なく、現在の慶次のイメージは、小説『一夢庵風流記』や漫画『花の慶次』で固まったものです。
では、実際の慶次は、果たしてどんな人だったのでしょうか? 慶次が養子に入ったとき、利久は尾張(現・愛知県西部)の荒子城主でした。しかし、利久が病弱だったことから、主君の織田信長が弟の利家に家督を譲るよう命じます。1569年、利久は城を退去し、慶次も城主の養子に入っていたのに、いきなり牢人(浪人とも)になってしまいました。
▶出世よりも友情優先!?
続きを読む
スポンサーリンク