前田慶次「人の顔色は伺わない」?戦国一の傾奇者に学ぶ「力まず生きる」方法とは
世間体や出世より、友情優先で生きる!?
その後の慶次の消息は長く不明でしたが、1581年頃になって能登と(現・石川県北部)一国の大名になった前田利家を養父・利久と訪ね、父子で7000石を与えられています(慶次はうち5000石)。しかし家禄を与えられても、慶次は前田家におとなしく収まっていられるタイプではありませんでした。「ああー、なんか楽しくねえなあ!」と、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐が終わると、妻子を残して前田家を出奔します。
何にもしばられないで、風流な暮らしをしようと考えた慶次は、その後は京都で牢人生活を送りながら、里村紹巴や古田織部といった当時一流の文化人と交流しました。自ら連歌会を主催し、当代きっての文化人だった大名・細川幽斎(藤孝)もその会を訪れた記録があります。
文化人大名との交流のなかで、「当家の重臣として来てくださらぬか」と、好条件での誘いもたくさんあったといいます。ところが、慶次は男の友情で結ばれた会津(現・福島県西部)の上杉景勝の家老・直江兼続のために、わずか1000石で上杉家の家臣になります。
前田家時代の5分の1の知行であり、普通の武将ではありえない決断です。世間体や石高よりも、自分の「心の声」に忠実だったことがよくわかります。
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