石田三成「熱狂的なファン」もいれば「アンチ」も多数! 賛否分かれる嫌われ者に学ぶ「等身大の生き方」とは
歴史上のえらい人たちって、みんな、天才に生まれついた上にものすごく努力をしたんでしょ、そんなの私が同じようにできるわけがない。何の参考にもならない……と普通は思いますよね。
よくよく人物を研究すると、意外にそうでもないんです。「結果的に成功した」人が後世に伝わっているのであり、ひとりひとりがやってることを見ていくと「意外と普通の人なんだね…」と思うようなことも多々。
たとえば、豊臣秀吉の腹心の部下だった石田三成もその一人。
軍事指揮官と官僚、両方の能力が求められる難しい立場を生きた三成、その真髄はどこにあったのでしょうか……? 『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(加来耕三・監修、ねこまき・画)から抜粋編集してご紹介します。
「秀吉様にとり入っている」と嫌われた三成。その構造は社内での揉め事にそっくり
1600年、〝天下分け目〟の戦いといわれる関ヶ原の戦いは、東軍の徳川家康と西軍の石田三成が激突。結果、家康が勝利し、徳川の力をゆるぎないものにしました。
敗戦した石田三成は、徳川の天下の前、豊臣秀吉政権の五奉行のひとりでした。五奉行とは、政治の実務面を担う秀吉の家臣のこと。それに対して、五大老という制度もありました。こちらは豊臣家中の人間ではなく有力大名がメンバーで、豊臣政権の運営を合議で決める制度でした。
秀吉が没すると、次の天下をうかがっていた五大老筆頭の家康は、勝手に大名家同士の縁談を進めるなど、秀吉存命中の禁止事項を破って大名たちの懐柔工作を始めます。とくに秀吉の側近であった石田三成は、家康の勝手な動きが許せず、豊臣家のために何とか抑えようとします。
ところが当時、豊臣家臣団のなかには深刻な対立がありました。朝鮮出兵(*)で現地で苦しい戦いを続けた「尾張衆」と主に「近江衆」から選ばれた五奉行との確執が深まっていたのです。尾張衆は秀吉が木下藤吉郎秀吉と名のっていた若い頃からの武将たち、近江衆は秀吉が長浜城主に就任して以降の家臣です。尾張衆を「武断派」、近江衆を「文治派」ともいいます。
*秀吉の最晩年に行なった、二度にわたる朝鮮へ進軍のこと。秀吉の死により頓挫する。
文治派だった三成は、朝鮮出兵での諸将の働きを秀吉に過小に報告したとされており、武断派から憎まれていました。実際、関ヶ原の戦い前年に福島正則、加藤清正ら武断派の7人の武将が結託して、三成を討とうとする事件も起こっています。
五奉行のなかでも、とくに秀吉に近かった三成は、合戦の現場で修羅場をくぐった武断からすれば、「太閤殿下にとり入って、うまいことやっている」ように見えたのです。
会社にたとえるなら、現場たたき上げの営業チームと社長秘書室などの内勤チームの軋轢のようなもの。三成は、本当ならその調整役であるべきでした。しかし秀吉から信頼され、自負心の強い三成は、自分から進んで武断派にコミュニケーションを求めることはしませんでした。
▶しかし、友人がいない訳ではなかったのです。むしろ…
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