石田三成「熱狂的なファン」もいれば「アンチ」も多数! 賛否分かれる嫌われ者に学ぶ「等身大の生き方」とは
嫌われ者のイメージが強いけど…実は友人がいなかったわけではないのです
一方で、三成は秀吉の一家臣でありながら、当時の名だたる大名に人脈を持っていました。
たとえば五大老・上杉景勝の重臣・直江兼続です。関ヶ原の戦いのきっかけとなった会津征伐(*)では、「会津(現・福島県西部)の上杉が挙兵すれば、家康はそちらの討伐に向かう。その間に西国の諸将をまとめるので挟み討ちにしよう」といったように、兼続と三成が事前に打ち合わせていたと推察されています。
*家康が命令に従わない上杉を討つため会津へ進軍。途中で三成の挙兵を知り、関ヶ原へ。
有名なのは、同じ近江衆である大谷吉継との友情です。家康が上杉討伐のために諸将を動員したので、吉継は三成のもとに立ち寄り「ともに上杉討伐に従おう」と誘いました。しかし三成はすでに上杉と話がまとまっており、吉継には逆に自分についてくれと説得します。驚愕した吉継でしたが、友情のために三成に味方する決断を下します。
そして吉継はわずかな手勢で、裏切りの噂があった武将・小早川秀秋の陣の近くに、わざわざ陣取りました。開戦後、小早川は噂通り裏切りますが、吉継の陣取りはそうした小早川の動きを、いち早く見極めるためのものだったといわれています。吉継は危険を承知で、三成のために動いたのです。
ほかにも五大老の一人で西軍の副将だった宇喜多秀家は、備前岡山57万石の大名ですが、一貫して三成支持で行動していました。こうして見ると、三成に協力する大名もたくさんいたのです。自分を嫌う連中を味方にしようとまではしませんでしたが、心が通じ合う仲間もたくさんいました。自分を誤解したり恨んだりする人間への説明や対応には横着だった三成ですが、当代一流の人物たちに支持されていたのもまた事実だったのです。
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