東大生が意見を述べないのは「コミュ障」なのではなく「美学」。それを理解できない人の寂しい末路
寛容・柔軟・慎重・聡明な東大の先生
授業や試験に対する要望に柔軟に答えてくれる先生もいます。
ある先生にどうしてそんなに優しいんですかと聞いたことろ、「接客業だと思っているので」と言っていました。
ぼくが通っていた公立の小学校から高校まで、先生というのは生徒より自分の方が優れていると思っている人々でした。
間違いを認めず、謝らず、理不尽に生徒を叱る。
しかし、生徒も馬鹿ではありません。間違いや不条理に気づく。そうすると、先生に対しての敬意が薄れていきます。
一方で、東京大学の先生は学生に対して緊張感を持って接しています。
誤ったことを言えば、たちまち足をすくわれると思っているのかもしれません。
先生方も賢い。大抵は東大卒です。それでも数十人から数百人の東大生の集合知が合わされば、間違いを指摘することは容易です。
他人への厳しさはそのまま自分に対する眼差しとして返ってくる。先生たちの寛容さは、いざというときの保険の役割も果たしています。
さて、そのような先生方の中でも異質な存在がいます。それがフランス語の先生です。
彼はフランス人で日本語があまり話せません。だから、学生や大学との意思疎通に問題があります。
激昂する彼 を見て、なんて視野の狭い大人なんだと思うことがあります。
授業で声を荒らげるフランス人のおじいさん
ぼくはフランス語の授業を6人で受けています。
家族にフランス人がいる学生ふたり、フランス語が公用語の国に長期間住んでいた学生ふたり、他大学でフランス語の授業を受けていた学生、そしてフランス語で東大を受験したぼく。
授業では70歳くらいのフランス人の先生が環境問題や音楽について説明し、意見を求めます。
ある日、先生は我々にフランスの古いポップミュージックの歌詞について議論を求めました。
「話シアッテクダサイ」
歌詞がどのようなことを意味しているのか正確に掴むことは簡単ではありません。
言語も文化も異なるからです。ただ、6人中4人はフランス語が達者です。
フランス語で話し合うだけの能力があります。
しかし、1分ほどの沈黙が続きました。それはそれは長い静寂でした。
しじま。
ぼくの頭にはこの3文字が浮かんでいました。
ぼくを除く5人はどちらかというと口数の少ないタイプの人間でした。先生は感情を抑えることなく怒りました。
「(フランス語で)ここは高校までにフランス語を勉強した者だけが入れるクラスなんだぞ!どうして議論しないんだ!」
それでも我々は沈黙していました。きっとみんななんて答えていいか分からなかったのだと思います。
つづき▶【後編】では、あえて発言しない学生たちに向けて怒鳴り散らす先生へ伝えたい東大生の本音についてお伺いします___ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶
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