東大生が意見を述べないのは「コミュ障」なのではなく「美学」。それを理解できない人の寂しい末路

発言を強要する先生に対する東大生の視線

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口数の少ないタイプ揃いの僕らに向かって、議論をしろと何度も感情的に怒るフランス人のおじいさん先生。なぜ議論をしないのかと怒鳴る声に対しても、学生たちは口を閉じたままです。

ぼくがもっと上手にフランス語が話せたら、きっとこんな風に言います。

「フランス語の能力が低いから話さないのではなくて、それぞれ個性があるんだよ。大勢で会話することを好まない人や自分の意見を言うのが苦手な人がいて、ましてや議論するなんてことを、誰かと意見を対立させたり、共同して一つの真理に到達しようとしたりするなんてことを好まない人だっているんだよ。ぼくはこれまでおしゃべりが好きな人たちに囲まれてきたから、東大に入るまで気づかなかった。自分の意見をはっきり言うことや誰かと議論できることは普遍的に良いことではないんだよ。先生の中ではそうかもしれない、フランスでは評価されるかもしれない、欧米では当たり前かもしれない。けれど、ぼくはそうは思わない。話をしなくたって自分の意思を伝える方法はあるし、自分の考えを伝えることが必ずしも良いわけではない。ぼくは控えめな彼らを美しいと思う。社会に出てから困ると言う人がいるかもしれないけれど、議論できなくたって口数がとてつもなく少なくたって、うまくいく仕事があるはずだ。どうしてぼくが尊敬する友人の素晴らしい部分が理解できないんだ」

こんな風に主張できたらどんなに良かったことだろうか。しかし、それを述べるだけのフランス語の能力がぼくにはありませんでした。

 

先生は4月からぼくらを教えています。
ぼくらの能力や寡黙さを把握していないのだろうか。
早口で捲し立てる前に、どうして議論しないのか、その理由を考えなかったのだろうか。

そのような迂闊さは、学生の不興を買います。
軽率さが先生の評価を著しく下げ、誰も敬意を払わなくなる。
多くの東大生が先生一人一人の人格や知識、研究に対して尊敬の眼差しを向ける。
その反面、未熟な先生に対しては冷酷だ。

先生に対して意見を述べ、誤りを指摘する学生はいない。だから先生は自分で気づくしかない。
気づくことはないから先生はもう成長しないだろう。気づこうとする姿勢がない限り。

 

もしあなたの家族の子供や兄弟、親が寡黙であってもそれは素晴らしい個性です。

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