平安時代なぜみんな「奈良の長谷寺」「滋賀の石山寺」に旅したの?こればかりは「現代に生まれてよかった」と思わざるを得ない
*TOP画像/まひろ(吉高由里子)、さわ(野村麻純)、乙丸(矢部太郎)、さわの従者(星耕介) 大河ドラマ「光る君へ」15回(4月14日放送)より(C)NHK
『光る君へ』ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は平安時代における「旅行」について見ていきましょう。
前編『「御曹司に見初められてハイスペ婚」結果はどうなる…?平安時代もさほど変わらない『蜻蛉日記』作者の末路』に続く後編です。
京都~奈良までの移動に約1週間かかっていた平安時代
日本における旅行の歴史は大和時代にまでさかのぼるといわれています。ただし、当時の旅行は政治にまつわる旅行で、現代人がイメージする旅行とは異なるものです。
プライベートな旅行は貴族に限られるものの、平安時代からはじまります。(庶民も旅行するようになるのは江戸時代以降です)
行先は寺院がほとんどで、参拝を目的としていました。具体的な旅先は奈良県の長谷寺や滋賀県の石山寺。
藤原兼家の妻・道綱母の人生最大の遠出は奈良県の初瀬(長谷寺参詣)といわれています。移動手段が牛車や船、徒歩に限られていた当時、国内で3本の指に入るほど裕福な女性も隣県に足をのばすのが精一杯といったところでしょう。というのも、京都と奈良を往復するのに約1週間の期間を要しました。
道綱母の旅(長谷寺参詣)の日程は以下になります。
1日目 午前6時頃、九条河原を出発。宇治院に正午頃に到着し、昼食。橋寺に宿泊
2日目 寺めくところに泊まる
3日目 椿市に宿泊
4日目 湯浴みをし、長谷寺で参拝する
5日目 もてなされながら帰路につく
6日目 同上
7日目 山城の国の久世の三宅に宿泊
8日目 夕方、京都に到着
出典:詳細は服藤早苗「「源氏物語」の時代を生きた女性たち」を参照
*24時間×8日=192時間=1万1520分
早朝に都を出発し、長谷寺に到着したのは4日目。帰路はもてなしを受けながらゆったりと都へ戻る様子が垣間見えます。
旅中の道綱母は自然にも関心を示しています。ただ、9月中の旅であったため、紅葉ははやく、かといって花は終わっていたようです。帰路ではもてなしを受けるなど、寄り道も楽しみます。
各地の物産が盛んになったり、宿場近くに市場が栄えたりするのは江戸時代以降。平安時代の人たちにとっての旅路での楽しみはもてなし(上流貴族に限る)や自然の景色でした。
石山寺には道綱母、藤原道長、紫式部などが訪れている
滋賀県に所在する石山寺も平安時代の貴族たちに馴染み深い場所の1つでした。
道綱母は石山寺にも京都から徒歩で参詣したといわれています。明け方に出発し、逢坂の関を越え、打出浜から船に乗ります。明け方に出発しても石山寺に到着するのは夕方頃。
石山寺では琵琶湖の景色を楽しめることもあり、貴族女性にとってこの寺への参詣は心躍るものでもありました。
また、紫式部は石山寺に7日間参籠し、『源氏物語』を執筆しました。石山寺から琵琶湖の湖面にうつる十五夜の名月を眺めたといわれています。須磨に流された貴公子が月を眺めながら都を懐かしく思う場面を構想し、「今宵は十五夜なりけり」と書き出しました。
中下級貴族(受領層)は家族で大移動することも珍しくなかった
平安時代は参拝を目的とした旅のみが行われていたわけではありません。
受領層の女たちは夫や父とともに赴任先に行くこともありました。紫式部は父・為時の赴任先の越前で1年ほど生活しています。また、紫式部の娘・賢子は夫とともに九州の大宰府に赴いています。
当時は現代のように道も舗装されていませんし、街路には灯りがないので、移動は相当大変なものだったはず。
受領は貴族ですから単身、もしくは家族だけで長距離にわたる移動をすることはありません。従者たちも一緒に移動しますから、当時において少なくない人たちが長期間にわたる旅を経験していると考えられます。
前編>>>「御曹司に見初められてハイスペ婚」結果はどうなる…?平安時代もさほど変わらない『蜻蛉日記』作者の末路
参考文献
・服藤早苗「「源氏物語」の時代を生きた女性たち」 NHK出版 2023年
・大本山石山寺 「大本山 石山寺 公式ホームページ 」
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