「地獄やあ、地獄やあ」進行する多発性骨髄腫、不意の骨折。痛みのあまり寝返りも打てず【なにわ介護男子#2】
闘病や介護という難しいテーマに一筋の光が差し込むのようなお話をしてくれたのは、日本を代表する夫婦漫才・宮川大助さん・花子さん。2019年に花子さんに血液のがんである「多発性骨髄腫」が発覚、今もなお闘病生活を続けています。
今年6月末には笑って泣ける闘病&介護エッセイ『なにわ介護男子』(主婦の友社刊)を上梓。完治しないこの病気を抱えながら生きる花子さん、そして自身の体調も芳しくない中でも懸命に支える大助さん。花子さんはそんな大助さんを「なにわ介護男子」と命名し、大変な闘病と介護の日々にもクスッと笑えるスパイスを忘れません。本連載では、おふたりのお話から、「生きる意味とは?」「夫婦とは?」を考えていきます。また、介護をする側・される側の本音にも迫ります。
「あわてず、あせらず、あきらめず、私はこれからも挑戦を続けます」。著書の終わりをそんな前向きな言葉で締めくくっている花子さんですが、実際には計り知れない痛みや苦しみ、葛藤を経験しているのは想像に容易いものです。
そんな花子さんが「転移性骨腫瘍の疑いあり」と告知を受けたときのお話をご紹介します。一体、いつどんな風に異変を感じたのか? 告知を受けたときの心境は? 当時を振り返ってもらいました。
前編『「あなたの余命は半年です」その瞬間、宮川花子の脳裏をよぎった「この言葉」』に続く後編です。
「地獄やあ、地獄やあ」うめき声が出る。激痛。トイレにもいけない
治療が一区切りして、穏やかな時間を過ごしていたのは束の間。2019年1月、骨髄穿刺で骨の中の形質細胞腫が10%以上あることがわかり、最も恐れていた「多発性骨髄腫」と診断されたのです。担当医の天野先生から、ついに化学療法=抗がん剤の治療を勧められた花子さん。ところが、髪の毛が抜けてしまうことや副作用が恐ろしく、抗がん剤治療を始める決心がつかなかったのだとか……。
「天野先生に大阪国際がんセンターを紹介してもらったにもかかわらず、二の足を踏み続け、あろうことか何カ月も治療をせずに過ごしてしまったのです。私の気持ちを尊重して、大助くんも娘のさゆみも何も言いませんでした。自分の闘病に後悔があるとすれば、唯一このときのことだけ。素直に化学療法を始めておけば、あんなに苦しむことはなかったからです」
無治療の間、必死の願いもむなしく、『がんは夢のように消えた』なんていう奇跡は起きなかったそう。そして、花子さんは日に日に腰が痛くなり、5月に入ると、歩くことも立ち続けることもほぼできなくなりました。ある朝、鏡を見ると右目が飛び出し、メガネがかけられない。さらに車椅子に乗せてもらおうとすると左の鎖骨がパキーンと骨折してしまったのです。
「『今、パキーンと言うたよな?』『言うた』。さゆみにも聞こえるほどの大きな音を立てて鎖骨が折れたのです。その頃は、必要なとき以外はずっとベッドに寝ていました。少し動くだけでも激痛が走るため、『地獄やあ、地獄やあ』とうめき声が出るのをどうすることもできません。トイレに行くのも死に物狂い。しかも苦労して行ったにもかかわらず、おなかを押さえてもらわないとおしっこが出ないのです。ほんまに地獄でした」
「殺す気か!もう秒読みに入ってる」医師のただなぬ声で我に返った
筆舌に尽くし難い苦しみが次から次に襲ってくる日々。そんな中で迎えた6月、落語家の桂きん枝さんが桂小文枝になられる襲名披露に出席するために関東へ行くことを予定していました。でも、花子さんは感覚の麻痺と痛みで意識が朦朧と……。見かねた大助さんが天野先生に電話で状況を伝えると、衝撃的な言葉を放たれてしまったのです。
「『大ちゃん、花ちゃんを殺す気か! すぐ連れてきて。もう秒読みに入っている。』先生のただならぬ声色に、大助くんはすべてキャンセルすることを決断し、奈良県立医科大学附属病院に車を飛ばしました。担ぎ込まれる私を見て先生は『余命1週間。治っても生涯、車椅子と腹をくくってください。私たちも全力を尽くします』と険しい表情でおっしゃったんだとか。当の本人は、意識が朦朧としていたので覚えていないんです」
このとき、がんの目安となるフリーライトチェーンは800。通常、50を超えたら大変厳しいといわれるため、いかに花子さんの病状が深刻だったかがわかります。出なくなっていたおしっこが逆流して膀胱が破裂していたら? 床ずれが骨までいって感染症になっていたら? 骨にがんができていて気道を圧迫したら? 右目の近くの骨の腫瘍が破裂しら? そのどれが起きても何の不思議もなく、どれが起きても間違いなく危険な状況だったのだそう。
「意識が戻ってしばらくたった頃、天野先生が病室にふらりとやってきて『将来、車椅子で漫才ができたらいいね』とおっしゃいました。『車椅子? なんで? 立ってやったらええやん。先生、おかしなことを言わはるな』と思っていたのですが、ベッドで足を動かそうとして驚きました。ピクリとも動かないのです。感覚もありません」
なんと、花子さんは首にできた腫瘍に神経を圧迫され、下半身の神経が壊死してしまったのです。一度、壊死した神経が元に戻ることはほぼなし。しかも、下半身だけでなく、右手もほとんど動かなくなり、大好きな編み物どころかお箸を持つことも不可能になっていきました。「このときばかりは、どないしようと途方にくれた」と、当時を振り返ります。
「夜、大助くんもさゆみも帰ってしまって病室で一人になると、さすがの私も不安に押しつぶされそうになりました。そんなときは『ビクトリーロード』を小声で口ずさんで涙をぬぐったものです。『ビクトリーロード』、ご存じですか? そう、ラグビーワールドカップ2019日本代表のチームソングです」
ビクトリーロード
この道 ずっとゆけば
最後は笑える日がくるのさ
「私にもきっと笑える日がくる。そう信じよう」。花子さんはこのチームソングを繰り返し歌って、自分の気持ちを奮い立たせ、さらには先生方に励まされながら、リハビリに取り組む日々を過ごしました。すると、ある日突然、左足がピクッと動いたではありませんか! 興奮気味に天野先生へ報告すると……。
「布団をめくって状態を確認した先生は、びっくり仰天して病室から飛び出したほど。それくらい珍しいことだったのです。化学療法が怖くて逃げていたときには起きなかった奇跡が、病気と真正面から向き合って闘おうと決めたら起きました。神様がもう一度、チャンスを与えてくれたに違いありません。抗がん剤の効果もあり、日を追うごとに元気になっていったんです」
次の話(9月25日20時に配信します)>>>>先生に言われてるから。「しんどくなったら、何があってもやめなさい」って。でも、ここは芸の世界で
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>>泣けて笑える闘病&介護エッセイ。大注目の書籍がコチラ
『なにわ介護男子』宮川大助・花子 著 1,650円(税込)/主婦の友社
<著書プロフィール>
夫婦漫才の第一人者。大助は1949年、鳥取県生まれ。会社員を経て、浪曲漫才の宮川左近に弟子入り。ガードマンの仕事をしながら100本の漫才台本を書く。漫才ではネタ作りとツッコミ担当。花子は1954年、大阪市生まれ。大阪府警に入庁後、チャンバラトリオに弟子入り。漫才ではボケ担当。79年にコンビ結成。87年に上方漫才大賞の賞受賞。2011年に文化庁芸術選奨 文部科学大臣賞 大衆芸能部門を受賞、17年に紫綬褒章を受章。19年12月、花子が自らのがんを公表。2023年5月に大阪・なんばグランド花月に復帰。徐々にステージやテレビ、ラジオ出演を増やしている。書籍は『あわてず、あせらず、あきらめず』(主婦の友社)ほか。