「大丈夫だからね」能登地震のストレスで、子どもたちに心の不調が! 街の風景は変わってしまっても「私たちらしさ」は変わらない

2024.11.01 LIFE

震災後に育んだ、親子の新たなカタチ

千絵さんは3人のお子さんの母親。震災当時、長女は小5、長男は小2、次女は3歳でした。同じ震災を経験したとはいえ、その後の様子は三人三様だったといいます。

「息子はもともと暗い場所が苦手で、家の中で一人で行動するのを怖がることもありました。震災後はなおさらです。余震で鳴り響く緊急地震速報のアラームを怖がって、手を震わせながら大人に飛びついて来るようになりました。顔も真っ青でしたね。

それでも、震災直後の庭でのガレージ生活は元気で前向きに過ごしていたので、心配はしつつも見守っている状態でした」。

震災後の生活場所となったガレージで過ごす子どもたち。1週間後、自宅からソファも持ち込んだ。

 

ところが、震災後2週間ほど経った頃、体調に変化が見られるようになったといいます。

「本人には『大丈夫だからね』と穏やかに声をかけていたものの、正直とてもショックでした。症状そのものへの心配もありましたが、それ以上に、そこまで追い詰められていた息子の心を思うと胸がギュッと締めつけられるようでした。

改めて震災以前を振り返ると、不安に襲われるとまずは食欲が落ちるなどの身体反応が出ていたんです。自らの状況や不安の正体などを言語化して伝えるには、まだ幼過ぎるのかもしれません。

 

今回も、表向きは元気に見えても、きっと私の気づかない部分でたくさん我慢してストレスを抱えていたんだろうな、って。こうなるまで気づいてあげられなかった――そんな申し訳なさや心配、どうしたらいいのかという思いが一挙に押し寄せました」。

 

声を詰まらせながら、当時の様子を語ってくれた千絵さん。戸惑いはありつつも、すぐに周囲の手を借り、多くの目で見守ってもらえるよう体制を整えたといいます。

「通っていた小学校の被災状況は深刻で、近くの中学校を間借りする形で、1月22日にやっと始業式がありました。そこで、まずは担任の先生に状況を伝えました。さらに、震災後は児童も保護者も相談できるカウンセラーが学校に配置されたので、そちらでの相談もお願いしましたね。『ストレスとはまったく別の原因もあるかもしれない』からと、念のため病院の受診を進めてくださるなど、親より客観的な視野でアドバイスがもらえて助かりました」。

被災前、元気に広場を駆け回る子どもたち。

そんな状況で、何より回復の大きなきっかけになったのは、大好きな野球の存在だったといいます。

「実は1年ほど前から『習いたい』とねだられていたのですが、震災前は日常に追われて、つい先延ばしにしていました。ところが震災から数カ月経った頃、それまでにない強い声色で『お母さん、僕、野球がしたい』って、それはそれは真剣な眼差しで訴えてきたんです。その時『これこそが、いま本当に必要なことだ』と心の底から感じ、『うん、お母さんと一緒に行こうね』とすぐに準備を始めました。

その2、3日後でしょうか。一人で洗濯物を干す私のところに息子が寄ってきて、『お母さん!』とたったひとこと口にしながら、にっこり笑ったんですよね。その笑顔が、ものすごく印象的でした。息子からにじみ出る喜びや安心感、私への感謝が伝わってきて、込み上げるものがありましたね」。

 

それ以来、練習のみならず、あらゆるテレビ番組や雑誌で野球ニュースをチェックするなど、毎日野球漬けの日々を送っているという息子さん。体調も落ち着き、表情はすっかり明るくなったのだそう。

「多くの悩みや不安に駆られた時期だったからこそ、“好き”に秘められた可能性とパワーを目の当たりにしましたね。医療や周囲のケアも大切ですが、本人の心の喜びこそが最大の特効薬なんだと思い知らされました」。

 

 

愛情と感謝を言葉で伝えて芽生えた、新たな信頼

一方、当時小学校5年生だった長女は、震災後の生活でも不安や愚痴を一切口にしなかったといいます。

「震災の瞬間、娘は私の実家で被災して、夫や私とは離れ離れでした。不安だったはずなのに、直後に私と合流できた時は『お母さん、大丈夫? 何か食べられた?』というのが第一声でした。怖がり屋の長男や小さないとこにも、『大丈夫だよ』と一生懸命声をかけてくれていたんです」。

 

もともと我慢強い性格な子だったとはいえ、震災後は余計に自分を抑えているようで、親としてはむしろ心配な思いもあったという千絵さん。ある夜、娘さんを一人近くに呼び寄せたといいます。

「ギュッと抱きしめて、『みんなのことを心配してくれてありがとう。愚痴や不安を言っても大丈夫だからね』と伝えました。

そもそも、親子ともに感情を大きく表すことがあまりないんです。私自身、甘えるのも甘えさせるのも下手なので、この一言をいうだけで、実はかなりドキドキしていました」。

 

何か応えるでもなく、棒立ちでただただ抱きしめられていたという長女は、その後も不安を口にすることはなかったといいます。それでも、その夜を境に親子関係には小さな変化が生まれたようです。

「以前よりも、いろいろなことを喋ってくれるようになりました。以前は学校生活など家族といる時以外の様子が見えなくて、母親なのに長女のことがあまりわからなかったんです。

でも、あの夜以降、学校や友達のこと、自分自身のことを『聞いて、聞いて!』と話してくれるようになった気がします。私のメイクや服装にもコメントしてくるのが日常になるだなんて、少し前には想像もしていませんでした」。

震災があったからできたハグ。そこで伝えた言葉が、千絵さんと長女の新たなカタチをじんわりと育みました。

絵を描くことが好きな千絵さん。長女を描いたイラストは、店の包装紙になっています。

 

 

できることを一つずつ。いつもの営みが未来へのエネルギーに

一方で、夫・洋人さんの妻という役割もある千絵さん。洋人さんは能登町で「なかの洋菓子店」を営む店主でもあります。家だけではなく店の被災を目の当たりにして、悩ましい状況に置かれた面もあったようです。

「店への水の供給は4月まで不安定な状態が続きました。菓子製造はおろか、本格的な掃除すらできない状態で、夫は本当にもどかしかったと思います。

そんな状況下でも、『まずは今、自分たちができることを』と、冷凍庫に保管していた焼き菓子を近所の方に配ったり、さらに夫は近所の片付けを手伝ったりしながら、どうやって動き出そうか考え続ける日々でした」。

気持ちの浮き沈みが波を描くような日々の中、千絵さんたちが最も大切にしたのは、家族で食卓を囲む時間だったといいます。

被災後の子供の誕生日も、夫・洋人さんがゴムベラとジッパーバッグと包丁だけで作ったケーキでお祝い。板チョコを溶かして文字を書くなど、不便な中で工夫を重ねたそう。

「夫はケーキ職人ですから、料理も食べることも大好き。震災時に食料が確保されていた点も、私たちは恵まれていました。

どれだけ気持ちが沈んでいても、大したおかずがなくても、義母と私、夫が作った料理を家族で囲む。それだけで、食事ができることへの感謝も湧いてくるし、空気も心も自然にゆるむんです。言葉にして励まし合うことはなくても、食後は少し元気になるのを感じていました」。

 

さらに、千絵さんは話し好きの洋人さんの話に耳を傾けることも大切にしていたといいます。

「普段は思わず『うるさい!』と言いたくなることがあるほど、夫は話し好きなんです(笑)。そんなお喋りが、あの時は大きな救いになりました。夫がたくさん話して、私がじっくり聞いて、時には一緒に笑う。物理的に大きく前進できない状況下でも、一生懸命前を向こうとする主人の思いを確かに感じ取っていました。そういうやりとりがあったからこそ、未来へのエネルギーの火を絶やさずにいられた気がします」。

 

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