東大生はテレビを観るときだってボケっとしていない。「女子大生」ばかりが出演する番組に感じたこと

女子大生を大量に出演させる番組

昔ながらの企画なのかもしれない。

「女子大生」をスタジオに登場させて、ゲームやトークをさせる番組。

東大の先輩が、その番組をスクリーンショットして、Instagramに載せていた。その投稿には以下のようなコメントが添えられている。

 

「この番組を見た時のもやもやした感覚が表現できない。ジェンダーに詳しい人教えて」

 

 

ぼくはその投稿を見て「各個人の個性を捨象して“女子大生”という記号を利用するのは、古い考え方だな」とは思った。

だが、女子大生のポジションが芸人や外国人や東大生に代わった類似の番組があることを考えると、それらを許容するならば、「女子大生を記号として使うことは悪いことだ」と言い切るための材料がなくて困っていた。

そこで、ジェンダーの勉強をしている東大生に話を聞くことにした(東大には勉強している人が多い)。

 

 

「番組内での役割、構図はもちろん、それがジェンダー化されていることの意味をマクロに考えられるといいのかもしれないです。︎

番組からは①主導権を握るMCの男性と聞き役の女性、②同じ衣装で画一化された無個性な女性という情報が読み取れます。

司会というspecific(※編集部注:Specific=特定の)な役割を与えられた男性がいる一方で、交換可能な存在として女性が出演していますね。

個性を排することによる女性性の強調で、女性が記号化されていると感じる人もいると思います。

社会のジェンダー格差を反映していること、出演者の構成として、おそらくこの逆はありえないこと、男性による男性視聴者のための番組であることに不快感を持つ人もいるのではないでしょうか。

 

女子大生がすべて芸人だった場合を考えてみます。

芸人というカテゴリーと女子大生というカテゴリーの大きく異なる点は、そのカテゴリーを選べるか否かだと思います。

さらに、芸人は芸歴や実力などで選ばれて出演しますが、女子大生は主に女子大生であることで出演しています。

その点で視聴者に感じ方の違いがあると思います」

 

 

自分の中の違和感が整理されていくのを感じながら、さらに質問した。

 

「個性を排してーーを強調する」。これはテレビに限らず散見される。
テレビの例だと東大生ばかりが出演する番組がある。

なぜ、「ーー」の部分が「女子大生」や「女性」の場合に問題とされるのだろうか。
また、「本人が望んで出演しているから問題ない」という意見にどうやって対抗したら良いだろうか。

 

先輩は少し考えてから答えた。

「必ずしも女性に限って問題にされるものではないという気がしています。

ここで背景を考えてみると、

・女性は社会的に隠れた存在であり、男性に付属する存在として捉えられてきた歴史

→ 例えばトロフィーワイフなど、「女性らしさ」や「若さ」などの要素が、女性の(男性から見た≒従来の社会から見た)価値であった。

 

個性を廃し女性性を強調するような演出は、上記を想起させる面があると思います。
男性を経済力で判断するようなコンテンツに関しても言えるという反論がありえますが、一つ大きく異なるのは、女性がマイノリティであるという点です。
経済力は男性の権力を維持するものでしたが、女性らしさは不平等な社会構造の中で価値づけられたものです。

 

また、女性に限らず特にマイノリティの場合、「個性を排する」ことへの反発が強くなると思います。
マイノリティはただ存在しているだけで、マジョリティからは一括りにされる傾向にあり、問いかけの対象であり続けます。だからこそ、グルーピングし、個々を不可視化する行為自体が差別と捉えられやすいのではないかと思います。

 

 

▶つづきの【後編】を読む▶女子大生であるあることを強調すると反感を買うのに、まぜ東大生であることを強調してもセーフなのか? __▶▶▶▶▶

 

【編集部より】

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