
もう「大人」な年齢になった、発達障害のわが子。息子の未来のために、母としてやめたこと・始めたこと【体験談】
この「家族のカタチ」は、「私たちの周りにある一番小さな社会=家族」を見つめ直すインタビューシリーズ。いまや多様な価値観で描かれつつある、それぞれの「家族像」を見つめることは、あなたの生き方や幸せのあり方の再発見にもつながることでしょう。
関連記事「「生んでくれなんて、誰が頼んだ!?」夫からの怒声。発達障害児のシングルマザーに。息子の可能性を育めたのは「差し伸べられた手」があったから【体験談】」からお話をうかがっているのは、美佐子さん(仮名・65歳)。
21歳での結婚と、数年後の離婚。その後、ひとり親として、自閉症(※)の息子を育てるという決断をした日々についてご紹介してきました。
後編となる今回は、息子さんが打ち込んだフィギュアスケートとの出合いとそれを見守る日々、さらに美佐子さんの再婚についてお話をお聞きします。
(※)近年は「自閉スペクトラム症(ASD)」と呼ばれ、診断基準も変わっていますが、記事中では当時医療機関から診断された「自閉症」という表現を用いています。また、ASDには様々な症状・特性があり、本記事でご紹介するご子息のケースはあくまでも一例です。
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【家族のカタチ #8 育児編】
「だって、かわいいから!」――息子ならではの特性を理解し、愛情深く包み込んでくれた人々との出会い
保育園~小学校と、出会いに恵まれた美佐子さん親子。実はもう一つ、大きな出会いがありました。
「息子が、小学校1年生の頃でした。ビデオテープに録画したカルガリーオリンピックのフィギュアスケートに、何時間も釘付けなんです。『これ、おもしろいの?』と聞くと『おもしろい』と言うんですよね。『これ、好き?』『うん』『やってみたいの?』『やってみたい』『本当に?』『うん』って」。
何度聞いても揺らぐことのないその答えが本物だったことを、すぐに美佐子さんは思い知らされます。
「初めて行ったスケート教室でね、あの子、おそらく100回以上転んだんです。他の子は一度転んだだけでやめちゃうのに、息子はどれだけ転んでも、よろよろ立ち上がる。1時間転んでばかりだったのに、2回目も喜んで参加して……まだまだ転び続けていたけれど、ようやく立てるようになって、さらに時間をかけて前に滑れるようになって」。
「それだけ没頭できるのも、自閉症の特徴だから」と美佐子さんは笑いますが、その後通い始めたレッスンでは、素直で粘り強い姿勢として、周囲に届いていました。
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「国内トップクラスの多忙なコーチでありながら、自閉症児にとって難しい動きも、時間を惜しまず根気強く指導してくれました。ダブルアクセルなどもあっという間に跳べるようになるほど、自ら汗だくになりながら、それはもう熱心に。思わず『なぜこの子に、こんなにも教えてくださるんですか』と尋ねてみると、『だって、かわいいから!』って。どれだけ転んでも疲れても、『もう1回やろうか』と声をかけると、ニコニコ笑ってついてきてくれる。それがものすごくかわいいんだ、と言ってくれるんです」。
最初は週1回1時間だった練習は、間もなく4~5時間に。さらに練習は週2回に増え、やがて毎日リンクに通う生活になりました。
「練習は夕方から、時には23時ごろまで。タクシーで帰る日もありましたから、負担が軽かったとはいえません。けれど、何とか仕事と両立しながらサポートしました。
それからなんといっても、レッスン代が大変!たとえば、氷の表面にスケートの刃で図形を描く『コンパルソリー』の試験では、周りの子が20分くらいで終えるところを、息子は1時間以上の練習が必要でしたから。ふたを開けてみたら、レッスン料が12万円という月があって、さすがに驚きましたよ(笑)」。
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その後、息子さんは全国各地の大会へと飛び回りながら、20代半ばまでスケートを続けたのだとか。「やめてほしい、と思ったこともある」と当時の正直な思いを口にしつつも、長きにわたって我が子を見守り続けた当時の心境について、美佐子さんはこう語ります。
「練習の合間のリンクの製氷時間が、私にとって大きな癒しだったんです。ワクワクしながら氷が綺麗になるのを見つめる息子の様子や、製氷が終わったと同時に、喜びを全身にみなぎらせながらリンクに飛び出していく姿。それを見るのが、本当に嬉しくて。彼がやりたいというなら、とことん付き合おう、って思ったんですよ」。
「あなたと、結婚したいんだ」――過去も子どもも受け止めるパートナーと歩む、人生の第二章
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苦難はありつつ、多くの出会いに支えられながら、仕事と子育てを両立していた美佐子さん。ようやく我が子は大学、さらには大学院への進学を経て、20代半ばを迎えた時期に、最愛の実父を亡くします。
「私が45歳の時でした。小さい頃から『父親っ子』で、心の拠り所とも言える存在がいなくなってしまった――。病気での最期でしたから、こちらもある程度、心の準備をしているつもりでしたが、喪失感が大きくて……。昼間に仕事をしている間は何とか気を張っているのですが、帰宅すると寝込んで、泣いて暮らす日々が続きました。
そのせいもあったのでしょうか、父の他界と前後して『誰かと出会いたい』という気持ちが大きくなっていたんですよね」。
それまでも、美佐子さんのもとには、食事の誘いなどがちらほらあったといいます。ところが、そういった誘いはすべて断っていたのだとか。
「結婚での失敗を繰り返したくないと思っていました。さらに、私は自閉症の息子の母ですから。……でもね、父が亡くなった直後に、今の夫と偶然出会ったんです」。

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結婚は視野に入れない始まり。それでも、直前に互いの身内を亡くしていたり、かつて暮らしていた場所が近かったりと、いくつかの共通点が二人の距離を縮めます。10歳年上の彼との関係は、「燃え上がる恋愛というよりは、じんわり二人の中が温まる――そんな日々でしたね」。
付き合い始めて1年が過ぎた頃、美佐子さんはプロポーズされますが、それも一度は断ったといいます。過去の失敗と我が子のこと。さらに自らが抱えていた持病の存在が、その理由でした。
「でもね、彼が言うんです、『2人だと安心だよ』って。『前の結婚で子どもが生まれるときに、我が子の障害の可能性だって自分事として考えた。持病のことだって、これから僕も病気になるかもしれないでしょ』ってね。
それでも自分の過去や周りのことを気にして足踏みしていた私に、『そんなのは関係ないよ、あなたと結婚するんだから』と言ってくれたその言葉に……心が動きました」。

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「今の自分」をまるごと受け入れてくれた彼を信じて、再婚を決断した美佐子さん。「もっと早く出会いたかった」――そんな一言からも、信頼の厚みがひしひしと伝わってきます。
「結婚前、『娘をとられちゃう』と言う母に、夫は『安心してください。ぼくがお義母さんのことも全部引き受けますから』と答えてくれました。その言葉通り、晩年には何度も夜中に私と実家へ向かい、母の救急受診に同行してくれましたね。
結婚から数年経った頃、息子が海外での一人旅でトラブルに見舞われた時も、数年前に息子が体調を崩して入院した時も……彼は率先して対応してくれました。
自分の決断に対して、筋を通して誠実に行動するところ。そして愛情深い人柄。その存在は、『安心』という言葉では言い尽くせません」。
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