「これ、誰?」大好きだった俳優の存在も、娘の名前も、母から消えた。そして、現実を受け入れられない父。【親が認知症に!体験記】

2025.05.28 LIFE

里帰り出産の拒否、途切れる会話……今思えば、あれは予兆だった。

風景に美しさを見出し切り取る感性の一方で、「この頃は既に、母は一人で少しずつ何かがおかしい自分に気づいていたのかもしれない」とyuraさん(2019年3月 母撮影)

「これは後出しじゃんけんに過ぎないのですが……今にしてみれば、いろんな予兆があったんですよね」と、yuraさんは診断に至る以前の出来事を振り返ります。

「2019年の前半――つまり俳優さんを忘れて認知症を疑ったあの日から遡ること1年半くらい前でしょうか。私の里帰り出産について母に相談したんです。すると、母はしばし考えて、『自信がないからやめて』って断ってきたんですよね。しっかり者の母でしたから、少し意外だったのを覚えています。

尋常ではないレベルで言葉が出てこない様子も、そういえば同じ時期に感じていました。母とはしょっちゅう電話をしていたのですが、会話が、急にぷつんと途切れるようになったんです。体感で1分ぐらいかな……『あれ?電波が途切れた?』と思って、『もしもーし』と何度か呼びかけると、また会話が再開される、という具合に」。

「出産直後やお宮参りに孫に会いに来た母は、私たちにいつも通りに接してくれた」とyuraさんは振り返る(2019年9月 母撮影)

さらに、2019年8月の出産後にはこんな出来事も――。

「実家とは頻繁にビデオ通話をして、孫の顔を見せていたのですが……母が、画面に出てくれなくなっちゃったんですよ。『私はいいから……』と部屋の奥に逃げちゃうんです。

あの時の母は、同居家族の存在はまだ認識できました。けれど、多分、画面の先にいる私が誰なのか、『ビデオ通話』が何をしているかがわからなくて、怖かったんだと思うんです」。

「どれも、今だから答え合わせができること」と心の半分では割り切りつつ、残りの半分では「もっと踏み込めたのではないか」と、yuraさんは家族ならではの葛藤をにじませます。

「恐らく、私たちが気づくよりもずっと前から、母にしかわからない違和感があったんだと思います。そして不安も一人で抱えていたのかな。でも、日頃から感情を波立てたりしない人だったから……私たちに何も言わなかった」。

「だったら、診断が下った今からでも、その戸惑いや不安に、耳を傾けたい」――そう考えたyuraさん。ところが、その願いは叶いませんでした。

 

 

何度も唱えて練習した娘家族の名前――。母が最後に呼びかけてくれたあの日

5月の晴れた日、念願の母との再会。穏やかなひと時がようやく訪れた(2022年5月 母撮影)

コロナ禍が明け始めた2022年5月。診断後の母親とyuraさんが、初めて対面できる機会が訪れます。診断からは1年3ヶ月が経過し、yuraさんの娘は2歳9ヶ月を迎えていました。

「ようやく子連れで実家に帰れました。会った時に、娘だと認識してもらえるのかな……って、私は不安でいっぱい。ところが、いざ再会したら、ずっと私の名前を呼んでくれたんです。それが、ものすごく嬉しかった」。

うららかな日差しが気持ちの良い初夏、みんなでピクニックをしながら語らうひと時も。yuraさん家族にとって幸せなひと時だったに違いありません。

「母に名前を呼ばれたのは、あれが最後だった」(2022年5月 母撮影)

「一方で、やはり母の症状は進行していたんですよね。ピクニック中にトイレに行きたいと言い出し、『一人で大丈夫だから』と席を外したまま、20分経っても帰ってこなくて……。みんなで探し回ってようやく、迷い途方に暮れる母を見つけました。

――さっき、『私の名前を呼びかけてくれて嬉しかった』ってお話しましたよね。これは後から弟に聞いた話なのですが、私たちが到着する前に、母は手元のメモ用紙に私と娘と夫の名前を書き留めて、何度も繰り返し唱えて練習していたそうなんです。名前を忘れないように、呼びかけられるように……母の思いと努力が嬉しくて、でも母の心の内を思うと切なかった――」。

 

ずっと前から、「母の不安な気持ちを聞きたい」と願っていたyuraさん。この帰省では、やっと寄り添えると考えていました。

「たくさん話したかったし、母の話も聞きたかった。けれど、『もう話しかけないで』という空気が、なんとなく漂っているんです。表情にも緊張がにじみ、なんだかしんどそうな感じで……私たちの名前を呼ぶ、それが母の精一杯だったんです。もっと話しかければよかったという後悔は、正直残っています。でも、母の負担を思うと、そうはできなかった。――母に名前を呼んでもらえたのは、あれが最後だったと思います。それから間もなく、私たちの名前は忘れてしまいました」。

症状の進行を食い止められない、非情な現実。その様子を遠方から見守るしかなかったyuraさんでしたが、直後に訪れるアフターコロナの到来とともに、ダブルケアラーとして、介護の中心人物として奔走する日々が始まります。

 

関連記事『「入れる施設はありません」介護のプロもお手上げ。認知症の母、仕事に子育て……それでも私が、心折れずに向き合えた理由とは?』では、時々刻々と変化する症状の進行、そして次々と降りかかる無理難題に自らの心を整えながら挑む、yuraさんの「家族のカタチ」をお届けします。

 

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