報われない愛、救われない幼少期。それでも「美」を描き続けた「喜多川歌麿」の不器用な生き方。染谷将太が「べらぼう」で体現する悲しくも切ない天才絵師の生涯は
*TOP画像/歌麿(染谷将太) 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」46話(11月30日放送)より(C)NHK
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は喜多川歌麿について考えます。
▶▶なぜ写楽は10カ月で姿を消したのか。推し活文化が花開いた江戸で生まれた天才の「光と影」に迫る
【史実解説】女性の“内面美”を描いた喜多川歌麿は謎多き人物
喜多川歌麿の出自は詳しくわかっておらず、両親に関する記録も残っていないようです。しかし、歌麿が母子家庭で育った可能性を指摘する説があり、多くの女性像を描き続けた背景には母の面影を追い求める心理が働いていたのではないかと考える研究者もいます。
歌麿の美人画は艶やかで豊満な体型を持つ女性を特徴としますが、現実の女性像を超えた理想化の傾向も見られます。一部の識者はこの作風について母に対する欲求が反映されているのではないかと解釈しています。
当初、歌麿は西村屋与八の店で働いており、黄表紙の挿絵などを手がけていたといわれています。しかし、同店には美人画で圧倒的な人気を誇る鳥居清長がおり、歌麿は鳥山石燕や北尾重政からかわいがられていたものの、陽の目を見ず、冷遇されていました。そうした中で、彼の非凡な才能を見抜き、人生を大きく変えたのが蔦屋重三郎でした。
蔦重は歌麿を寄宿させ、生活の面倒を見ながら、絵師として育て上げたといわれています。蔦屋の強力なバックアップを得た歌麿は独自の美人画の世界を切り開き、浮世絵界を代表する巨匠へと飛躍しました。
歌麿の女性を描いた美人画は内面からあふれる美が色濃く投影されていますが、この特長は上半身をアップにした美人大首絵シリーズへとつながります。美人大首絵の中でも「ビードロを吹く女(ポッピンを吹く娘)」(1792年頃)は特に有名です。
また、歌麿は当時の絵師の多くと同様に春画も手掛けています。春画は現代でいう成人向けのエロティックな作品や18禁に相当しますが、こうしたジャンルは時代を問わず高い需要があり、取引は高額で行われます。歌麿は男女の営みを大胆に、そしてプライベートゾーンまでも細やかに描いており、彼の春画の中には江戸時代における春画の最高傑作の1つに数え上げられる作品もあります。
現代にその名を燦然と残す歌麿ですが、晩年は決して明るいものではありませんでした。蔦重の死から数年後、「太閤五妻洛東遊観之図」(1804年)が幕府の逆燐に触れ、手鎖50日の処罰を受けました。彼にとってこのときのショックは大きく、なおかつ50歳を超えていたこともあり、創作意欲は失われ、処罰から2年後にこの世を去りました。
歌麿の性格については詳しいことはわかっていませんが、頑固で反骨精神の強い人物だったと伝えられています。この性格が災いし、幕府の意向に逆らう作品を描き、手鎖の刑を受けることになったのです。
苦しみを絵に昇華した歌麿 次ページ
1 2
スポンサーリンク









