江戸のメディア王・蔦屋重三郎の晩年。「江戸煩い」脚気と『身体開帳略縁起』に残した最後の火。寛政の改革がなければ、蔦重はもう少し長生きできたのか【NHK大河『べらぼう』ベスト振り返りセレクション】
*TOP画像/蔦重(横浜流星) 次郎兵衛(中村蒼) てい(橋本愛)他 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」48話(12月14日放送)より(C)NHK
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は「蔦屋重三郎の晩年」について見ていきましょう。
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この世を48歳で去った蔦屋重三郎 蔦重を苦しめた脚気とは?
蔦重こと蔦屋重三郎は喜多川歌麿、北尾重政、山東京伝、東洲斎写楽といった、現代においても名高い絵師・作家を世に送り出した江戸時代きってのプロデューサーでした。また、当時の吉原は遊郭のみならず、エンタメの発信地でもありましたが、蔦重が出版した「吉原細見」は観光客の吉原散策に大いに役立ちました。
江戸における出版界の頂点に立った蔦重でしたが、47歳のときに脚気(かっけ)を患い、ほどなくして帰らぬ人となりました。1797年、享年48歳でした。
脚気は“江戸煩い(えどわずらい)”や“都会病”ともいわれています。脚気になると、足がむくみ(浮腫)、放っておくと、心臓機能が低下し、死に至ることもあります。
江戸でそれなりの暮らしを営んでいた人たちは精米された白米を主食にしていましたが、おかずは少なく、ビタミンB1やタンパク質が不足しがちだったため、脚気を罹いがちでした。
一方、脚気は農村で暮らす人たちには無縁の病。商売や参勤交代で地方から江戸に来た人たちは故郷に帰ると脚気が治ったといわれています。農村部では米に麦や粟を混ぜて炊いたり、野菜や雑穀が十分にあったりしたため、ビタミンB1不足に陥らなかったためです。
松平定信の寛政の改革がなければ、蔦重はもう少し長く生きられたかもしれません。というのも、蔦重は吉原で接待をよくしており、吉原の豪華な食事(バランスのとれた食事)で必要な栄養を補っていたためです。しかし、寛政の改革で接待が激減し、蔦重は栄養を補給する機会がなくなってしまったのです。
吉原の高級遊郭で提供される料理は幕府や大名屋敷の食卓にも引けを取らない、いやそれ以上の豪華さでした。現代の栄養学から見ると、贅沢なだけではなく、栄養面からも理想的なものであったのです。
ちなみに、当時は脚気の原因は分かっていませんでした。江戸において原因不明の病の1つとして、人びとから恐れられていました。
蔦重が体調不良の時期に出版した「身体開帳略縁起」
「べらぼう」では最終回に北村一輝が演じる本居宣長が初登場しましたが、1795年、蔦重は伊勢松坂を訪れ、本居宣長に会い、宣長著作の版権をお願いしたといわれています。蔦重は病に伏せる直前まで、精力的に活動し、ビジネスを開拓していたのです。
1797年、蔦重は絵を北尾重政に依頼し、“蔦唐丸”という名前で黄表紙「身体開帳略縁起」を出版しました。この本は体調不良に苦しみながら執筆・出版したものですが、タイトルの“身体開帳”には体への不安が投影されているように感じられます。

「身体開帳略縁起」 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」48話(12月14日放送)より(C)NHK
同書はある和尚の御開帳の説明を聞く人たちが自分の商売を見立てた開帳霊宝を見物する物語です。最後の場面では蔦重が自ら登場し、読者に挨拶をしています。
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