地獄のようなパレスチナ、イスラエルにも穏やかな日常があった。平和を取り戻すために私たちが「してはならないこと」は
離婚をきっかけに世界一周の旅に出たTVディレクター・作家の後藤隆一郎さん。途中、イスラエル、パレスチナのヨルダン川西岸地区にも立ち寄りました。
ひとりのバックパッカーとして、ヨルダンからイスラエルに入国した直後までの印象をお聞きした前編記事『イスラエルとパレスチナ、旅して触れたその地の人たちが「いま大勢死んでいくこと」』に続き、後編でも「等身大の現地の人々の姿」を伺います。
エルサレムで気がついた、イスラエルという国が内包する「異文化」
――前編記事では入国2日めまでの印象を伺いました。女性兵士が多いことに驚き、ジェンダー概念の先進性を理解し、そしてお金のこともちゃんとしている国だと気づく。「お金のことがちゃんとしている」というのは、先ほどのシェアバスの頭割りのお話ですか?
それもありますが、他の部分でも感じる機会があります。入国した翌朝、手持ちのヨルダンのお金をイスラエルのお金に両替しようと出かけました。すると、エルサレムのいたるところに両替所があるうえ、手数料がとても安いんです。
ユダヤ人は国を追われたあとキリスト教徒にとって禁忌だった金融業を引き受けることで頭角を現し、やがては世界中で成功を収めました。これと関連するのでしょうか、「どうすれば自分のところにお客がきてくれるか」お金のリテラシーもとても高いと感じました。5つも6つも両替商が並ぶ中、手数料を値下げしすぎない同程度のレートで共存共栄しながら競争をしているのです。
――なるほど。そして過ごしたエルサレム、いったいどのような街でしたか?
当時のエルサレムは観光客でごった返していました。3つの宗教の聖地ですから、巡礼の団体客がひしめいている状態です。イスラム教の聖地「岩のドーム」にはアラブ人が、キリスト教の聖地「聖墳墓教会」にはヨーロッパ中からキリスト教徒が集まってきます。
そんな中でいちばん驚いたのが、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」でした。一心不乱とはまさにこのことかと納得するほど、人々が本当に一心に壁に向かって祈りをささげているんです。ユダヤ教徒も人によって信仰の度合いが違うとは思いますが、全身黒い服で大きな帽子をかぶった正統派の人たちがたくさん歩き、若者にもかかわらず信仰心が深い人が多かったのがとても印象的です。
個人的にびっくりしたのは「嘆きの壁」で、ネパールや北インドのダラムシャラーでよく見かけた赤い袈裟姿のお坊さんがユダヤ教のラビと歩いていたことです。ダラムシャラーはダライ・ラマが住んでいる村です。ユダヤ教は一神教だと聞いていたので、高い階層の指導者であるラビが他宗教の僧侶と一緒にいる姿にどこか不思議な感覚を覚えました。イスラム教の聖地「岩のドーム」では、異教徒が入ることを許されませんでした。しかし、「嘆きの壁」はぼくのような観光客だけでなく、仏教のお坊さんまでもが参拝しているのです。
こんなふうに、嘆きの壁があるエルサレムの街には3つの宗教の聖地が隣り合うように混在しています。そして、宗教対立によるテロなどが起きないよう治安を保つため、男女の若い兵士たちが常に行ききしている。武力で平和を保ちながらも、街全体は宗教性を帯びた厳粛さと神秘性を併せ持っている。そんな、独特の空気が漂う街でした。
――非常に興味深い街です。さて、後藤さんはそんなイスラエルにはのんびりとは滞在せず、足早に要点を押さえて回ったそうですね。
はい。物価が高いうえ、ビザの滞在期間も短くて。エルサレムの後、イエス・キリストがその生涯でどのような道をたどったのか、彼の人生の軌跡を中心に回りました。マリアさまが受胎を告知された教会、キリストが生まれた場所、水面を歩いた湖、悪魔のささやきに取りつかれた岩山など、その生涯の軌跡を足早にめぐりました。その途中でパレスチナ人の難民キャンプにも立ち寄りました。
受胎告知教会には世界各国の「マリアと幼子イエス」の絵が飾られていました。イタリア、フランスなど各国が並ぶ中、日本は日本画家による聖母子像です。韓国やタイなどアジア近隣諸国も民族衣装を着ていて、こうした国ごとの違いを見るのがおもしろかったです。
世界中から洗礼の儀式を受けるため数多くのカトリック信者が訪れるヤルデニットでは、南インドの女性たちと会いました。カラフルなサリーを着たインド人女性たちが洗礼を受けています。当時南インドではヒンドゥー教からキリスト教への改宗者が一定いました。キリスト教徒になると、インドに深く根付いている階級制度、カーストから逃れることができるのがその一因であると、インドに住む方から聞きました。
このように、本当にさまざまな理由で多くの人々が世界各地からこの国を訪れる。そして、お互いが均衡を保って日々の暮らしを営んでいる、そういう土地でした。
そのパレスチナ人難民キャンプはがらんとして、廃墟のようだった
――難民キャンプという言葉が出てきました。いよいよ、パレスチナ側の事情に触れるのですね。
パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区のベツレヘムにはキリストが生まれた聖誕教会があります。キリストが降誕した洞穴の上に聖堂が建てられて、ローマ・カトリック、東方正教会、アルメニア使徒教会がそれぞれ所有しています。クリスマスには大勢の巡礼が訪れるそうです。まずはこの教会をぼくも訪れました。
ベツレヘムにはアイーダキャンプという、パレスチナ人の難民キャンプがあります。大きな鍵の形をしたゲートがシンボルですが、これは当時住む家を追われた人たちが「いつか帰れる」と家に鍵をかけ、鍵を持って出てきたことが由来なのだそうです。ぼくはここに立ち寄りました。
キャンプの周囲には分離壁があり、そこにパレスチナ人が抵抗のアートを描いています。バンクシーが描いた平和を祈る絵も見つけました。特に印象的だったのが、キャンプの入り口に、イスラエル軍によって殺された数多くのパレスチナ人の子どもたちの名前が書かれていたことです。そこには戦争の傷痕が悲しく記されていました。
分離壁ができたことでイスラエル側にとってはテロが減ったと言われています。しかし、この壁ができたことにより、宗教や価値観の違う2つの国の人々が相互理解する機会は減ったのだと思います。本当に最悪の壁です。ちなみにですが、この分離壁を眺める位置に「バンクシーホテル」というのができていて、「世界一眺めが悪いホテル」と銘打っていました。
ゲートの内側、難民キャンプは、1950年に作られたそうです。テントやバラックなどではなく石造りやコンクリート造りの建物が並んでいます。しかし、町全体が閑散として、廃墟みたいです。ぼくが訪問したときはチェックもなく簡単に入れましたが、入り口付近で、軍のトラックに乗ったイスラエル兵士が巡回している姿を数回ほど見かけました。
――パレスチナ難民キャンプ、キャンプという名前ですがしっかりとした建物なのですね。中に暮らすのはどのような人たちなのでしょうか。
キャンプの中はがらーんとしていてほとんど人影が見当たりません。中に進み十数分経ったときに、やっと雑貨屋や食料品を売っている人の姿を見かけ、「あー、ここに人は住んでいるんだ」と思ったくらいです。
やがて、人懐っこい子どもたちがわらわらと寄ってきました。歩いていると、彼らがぼくの後ろをついてきます。振り向いて「アッセラームアレコム」とあいさつすると、ニコリと笑い「どこへ行きたいの?」と話しかけてきました。
ぼくが「お水を買いたい」と言ったら、こっちだよ!と手招きしながらお店まで連れて行ってくれました。5、6歳ほどの男の子と女の子です。お水と一緒にお菓子を買ってあげるとキャンプを出るまでずっとついてきて、最後にバイバイと手を振って別れました。
かわいい子どもたちとお別れしているとき、難民キャンプの入り口にあるイスラエル軍によって殺された子どもたちの名前がもういちど目に入りました。そして、名前のひとりひとりに先ほどの子どもたちのような無邪気でキュートな笑顔があったのだとイメージすると、心が苦しくなり、なんとも言えない感情に襲われました。
――アラブ人が親切なのはなんとなくイメージできます。
このことはパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区、ヨシュア記「ジェリコの壁」で知られるジェリコの街にいたときにも感じました。街中には働いてない人が多いのですが、宿の人たちは日本人に対して興味をもって話しかけてきます。宿の金額が少々高く、「お金がないんです」と言ったら「わざわざきてくれたんだから」と安くしてくれました。観光して、夕方宿に帰ってきたら、いつでもチャイを出しておかえりと言ってくれます。ヨルダン人もそうでしたが、アラブ系の人たちは親日で、親切にしてくれました。
エルサレムで泊まった宿もアラブ系イスラエル人の経営でしたが、基本的に彼らは英語をそれほど話せません。いっぽうイスラエル人は多くの人が英語を話すのでかなり高度に交流できます。
先ほど「パレスチナ人とはどういう人たちか」と聞かれましたが、ぼくが交流できたのはこのようにベツレヘムやジェリコのパレスチナ人で、買い物の際に片言の話をする程度でした。彼らの住むエリアに近づきにくいことに加え、会えても言語の壁がありました。
――それに比べると、イスラエル人との交流は多く持てたのですね。
イスラエルの近代都市、テルアビブを訪れたとき、面白いと思ったのが彼らのファッションです。独特なんです。ユダヤ教徒の後ろが長い黒いコートとはまた別に、テーラードの燕尾服のような独自のおしゃれなファッションスタイルを知りました。
テルアビブをたとえて言うならば、裏原みたいなイメージ。イスラエル人は基本的におしゃれなんです。ぼくは世界を3年7カ月放浪しましたが、いちばんオリジナリティのある洋服を着た人々が集まる街だったと記憶しています。
特徴的なのがユダヤ教徒の安息日です。その日はユダヤ教の教えで働いてはいけないので、テルアビブでもお店がひとつも開いていません。公共交通もタクシーもすべてストップします。日本の休日の感覚でいた私の友人は、その日にテルアビブの空港から出発する航空チケットを取っていたため、交通手段を失い顔面蒼白になってしまいました。しかし、アラブ人のシェアバスが動いていることを知り、事なきを得るのですが、そうやって、異なる宗教の慣例や風習を知りながら旅ができた経験はとても良い勉強になりました。
――テルアビブで印象に残ったことはありますか?
安息日、テルアビブの町にあるビーチに行くと、かわいい犬を連れた若いカップルや家族がたくさん集まり、のんびりとした一日を過ごしていました。若い男女から子ども、お年寄りまでがまったりとしていて、とても平和な休日の午後です。ぼくが知っているイスラエルはそんな感じなんです。
どうしても日本人は「やられる側」の味方をしたくなるでしょう? いま、ガザの話が報道されますが、ぼくが出会ったイスラエルの人たちはこんな感じで、合理的な考え方をして、お金のセンスがよくて、我が強くて、おしゃれで、村上春樹を読んでいて、他国の言語文化の学習意欲が高く、長い流浪の間も民族を挙げて学びを進めることで文化を維持してきた人たちでした。 そして、休日はまったりと過ごす人々です。
パレスチナの地をその身体で体験したからこそ「冷静さが必要」だとわかる
――ここまで後藤さんご自身が見てきたイスラエル、そしてパレスチナの話を伺いました。
今回このインタビューを受けることにしてから、ずっとずっと考えていました。ぼくもTVディレクターですから、一部のメディア人やインフルエンサーはこういう戦争に際して数字を取るために先鋭的な内容で人々の感情をあおることを知っています。
ウェブ記事ならばPV獲得のために怒りや悲しみをあおる。普段はこれらの問題に興味がないのに、紛争の注目度が高くPVが取れそうという理由で、これらのニュースを取り上げる。その前はジャニーズ問題、次はイスラエル・パレスチナ問題という感じで。そこに明確なポリシーや社会的大義などみじんもない。数字のためだけにこの問題を取り上げている人を見ると、怒りを超え、いまの日本社会に対するあきらめに近い感情に陥ってしまいます。
今回の問題に関して、それは絶対にやってはいけないと思います。多くの人が亡くなっているのですよ。
――いきなり耳の痛い言葉です。
国際政治はできる限りこの問題を解決するように動いてきました。「国家とは何なのか」「宗教とは何か」「人種とは何か」「そもそも人類は本当に進化しているのか」など、人間という生き物の本性をつきつけられているような気がします。政治でいくらルールを作っても、欲望、怒りや悲しみ、恐怖などが理性で決めたルールをはみ出してしまう。つまり、パレスチナ問題は、「人間が長い歴史を積み上げ、努力して身につけてきた理性や知性だけでは、人間の本性を制御できない」という事実を投げかけているのです。
また、イスラエルとパレスチナ問題解決を探るうえでとても重要なこと、それは相互理解です。自分の意見や主張を持ちながらも、相手の主張や考えも理解する。わかりやすい説明をうのみにせず、常に疑問をいだき、絶えず勉強をする。そして、それらをただの知識ではなく自分自身の身近な問題に置き換え、起きていること、気持ち、その動機をイメージする。そういう一連のプロセスがとても大切だと思います。二元論や善悪、そして、ただの感情で物事を判断することは、とても浅はかで、ただの思考停止です。
多種多様な要素が複雑に絡み合うイスラエルとパレスチナ問題。人類にとって、極めて難しいこの問題について深く冷静に考え続けることで、いつの日か「本当の意味での多様性」を理解することができることを願います。
――そんな後藤さんが今回の発信を引き受けた理由は?
この記事を通じて「ぼくが伝えられるものは何だろう」と悩みました。考え抜いた結果、平和だったころのイスラエルの日常しかないと思いました。なにげない、いつもの生活です。
ぼくが入国した2017年当時のイスラエルも、街中に兵士がいたり、複数回にわたる厳しい検問があったりと、戦時下の様相を漂わせていました。それでも、お洒落をして嬉しそうにデートをする若者や、走り回る子どもを見つめる両親の優しい目、街角ではごくごく普通に生活する人々の中にたくさんの笑顔を見つけました。
当然、パレスチナ自治区にもそうした日常があります。同じ人間なのですから。いま戦いが起きている地の双方に、穏やかでなんてことない日常と平和があったのだということをイメージして欲しい。そして平和をもう一度取り戻してほしいと。
――イスラエル、パレスチナの人々に平和が戻るよう祈る。私も同じ気持ちです。
言うまでもなく、テロは言語道断です。今回で言えばハマスが起こしたテロは許しがたい。ぼくはガザにあるパレスチナ自治区の内側に入って日常を見たわけではありませんが、ジェリコで、ベツレヘムで、エルサレムで、アラブの人たちはみんなぼくに優しくしてくれました。牧歌的な人たちでした。月並みな言葉ですが、一日も早くパレスチナ、そしてイスラエルに平和な日が戻ることを願ってやみません。
後藤 隆一郎(ごとう りゅういちろう)
1969年大分県生まれ。明治大学卒業後、IVSテレビ制作(株)のADとして日本テレビ「天才たけしの元気が出るテレビ!」の制作に参加。続いて「ザ!鉄腕!DASH!!」(日本テレビ)の立ち上げメンバーとなり、その後フリーのディレクターとして「ザ!世界仰天ニュース」(日本テレビ)「トリビアの泉」(フジテレビ)をチーフディレクターとして制作。2008年に映像制作会社「株式会社イマジネーション」を創設し、「マツケンサンバⅡ」のブレーン、「学べる!ニュースショー!」(テレビ朝日)「政治家と話そう」(Google)など数々の作品を手掛ける。離婚をきっかけにディレクターを休業し、世界一周に挑戦。その様子を「日刊SPA!」にて連載し人気を博した。現在は、映像制作だけでなく、YouTuber、ラジオ出演など、出演者としても多岐にわたり活動中。著書『花嫁を探しに、世界一周の旅に出た』/産業編集センター
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