「能登の復旧が進まない」のは、誰にとっても他人ごとではない。これから国全体が高齢化すると同じことが繰り返される
輪島市町野町出身のシナリオライター、藤本透さん。ご実家は輪島市の中でも珠洲市と隣接するエリアにあり、1月1日の能登半島地震で被災、罹災証明で全壊の判定を受けました。
藤本さんは発災から一日も休まず、現地の情報や行政などの情報をX(旧ツイッター)で発信。能登半島地震をきっかけに増えたフォロワーは2,000を越え、今も町野町を中心とした多くの方の情報源となっています。藤本さんに寄せられた、町野町、輪島市内、能登町、珠洲の方々の声を元に「奥能登の今」を一部加筆・編集のうえで配信します。
前編『「新たに倒壊する危険性」「いまだに断水」「自衛隊の入浴支援だのみ」なのに話題が風化していく恐怖』に続く後編です。
【輪島市(市街地)】報道されなかったが、農業も甚大な被害を受けた。商店はいまだ時短営業
輪島市では、半壊以上は公費解体となっていますが、公費解体に関する情報が少なく、被災者はどのように対応すればよいかわからずに困っています。
家の物を全て出さなければならないという話もありますが、全壊家屋から家のものを出すことは不可能ですし、半壊・大規模半壊の家も、中で作業するのは非常に危険です。
ボランティアの人に頼めることでもなく、所有者はかなりの負担を強いられている現状があります。半壊の建物についても、一部を残して公費解体ができるのかどうかなど、所有者の声をもっと聞いてほしいですが、現状はそのようになっていません。せめて、行政からはきめ細やかな情報を発信していただきたいです。
また、港の損傷や海岸隆起、船の流出など、漁業ができなくなった方々の取材や報道が多くなされている一方で、農業に関する報道が非常に少ないと感じています。すでにある白米千枚田の報道にもあるように、耕作地が地割れや罅割れなどで使えなくなったり、排水路が壊れてしまっている方が能登には非常に多く存在します。これからは、田植えのための準備がはじまりますが、どうにか営農を再開される方々がいる一方で、機械が倒壊に巻き込まれるなど様々な理由で、再開することのできない人、廃業を選ぶしかなくなってしまった人がいることを知っていただき、どうか助けてほしいです。
輪島市街は営業を再開している店も増えてきましたが、営業時間などは時短が続いているため、日中働きに出ている若い世代は買い物に難儀しています。また、全ての店が再開しているわけではないため、たとえばタイヤ交換などのために金沢まで出なければならなかったりと、不便なことも多くあります。
輪島市のなかでは、復旧が早い方ではありますが、元の生活に戻るにはまだまだ時間がかかると感じています。
前編記事では、藤本さんが取材した「地元の声」をご紹介しました。後編では2人の支援者がそれぞれの立場から「いま必要なこと」を語ります。
【輪島市内】土木に携わる立場から。2011年の震災に比べて「日本の高齢化そのものが急速に進んだ」
インフラの被害が甚大です 。例えば、私はトンネル点検の会社に務めていますが、今回の被災地におけるトンネルの6%程度は、復旧不能になる可能性が高いと聞いています。そのようなトンネルは、東日本大震災の時は0本、熊本地震の際でも1本だけだったと聞いているため、この数字は前代未聞です。
また、建物へのダメージも、相当に深刻です。2月22日から3日間、実家のある輪島市街地に戻った際には、震災直後よりも傾いている建物を複数目にして、ひどく驚きました。
現在、二次避難等で能登を離れていて、既に輪島に戻らない意思を固めている人がいることを、人づてに聞くこともあります。ハードの復旧が遅れることは、そのような人を更に増やしかねません。
とはいえ、地理的にアクセスが難しい奥能登においては、ハード面の復旧については、一足飛びの解決方法はないように感じます。加えて、一つ感じることは、今回の震災復興は、多くの課題に同時並行で取り組んでいかなければならなということです。
例えば、東日本大震災においては、復旧・復興・再生とフェイズを分けることができたのは、被害規模は甚大である一方で、道路の状態は能登半島に比べて壊滅的ではありませんでした。
太平洋側の岩手、宮城、福島を中心に甚大な被害が発生した東日本大震災では、日本海側から被災地へ入っていくことができましたし、熊本地震の場合は、周辺県からアクセスすることができたのです。それに対して、今回の能登半島地震では、主要道路であるのと里山海道、国道249号が甚大な被害を受け、国道249号はいまだに大規模崩落が起きたまま緊急啓開すら出来ない区間があります。
道路の問題はインフラの問題に直結し、複合的な問題となって被災地にのしかかっています。
また、団塊世代が後期高齢者となった中では、どのような課題においても、超高齢化という変数が加味されます。能登半島はその問題が震災以前から懸念されており、奥能登の高齢化率は特に顕著で、ほとんどの地域が5割を超えます。このため、復旧を仕上げてから復興に取り掛かるようでは、能登を一時的に離れた人は戻ってこなくなり、益々高齢化が進むという悪循環に陥ることもあり得ます。
だからこそ、私たち被災者やその家族は声を上げ続け、正確かつ継続的な報道が続くよう働きかけを続けなければなりません。今回は超長期戦になることは必至なので、外部にいる多くの人々への、中長期的な関心を喚起する必要があります。現在の被災地で、真に求められているものは何なのか? そのために何ができるのか? どうかたくさんの人の知恵をお借りしたいと望んでいます。引き続き関心を持っていただき、この困難な状況から負け取られん、進まならんと立ち上がろうとしている能登の方々へのご支援をどうかお願いいたします。
(瀬戸恵介さん/宮城県在住)
【町野町】自身も被災した医師が、避難所に避難しながら診察を続けている
1月4日石川県入りして以降、被害甚大な奥能登で3か所の避難所や在宅避難者の支援活動を開始し、数え切れない被災物件と被災者に出会ってきました。
地方自治体の混乱ぶりも相当なもので、ミスリードは現在も続いており、それに気付き修正されるのは今日か明日かとの思いで3か月目をこの地で過ごしています。
そんな被災地で珍しい出来事に出会ったので、ご紹介させてください。医者が避難所で避難生活を送りながら診察も行っているのです。これまで29年間の災害支援活動でも初めてのことでした。
東日本大震災時も処方箋などを必要とする被災者が、担当医を探して避難所を探して回るケースを幾度も目にしてきましたが、被災地の避難所にはどこをどう探しても見つからず、親族先やホテルに賃貸物件と、早々に被災地外へ移動するケースが多くありました。
そんな中で、町野町の粟倉医院の大石医師が避難所に地域住民と共に暮らし、診察も続けていると知り驚きました。
1月後半にこの避難所で炊き出しを行った際に、この人物をちらりと見掛けたのが最初の出会いでしたが、その後も避難所へ支援物資を提供したり、被災建屋から家財を運び出したりと偶然にも関りを持つ内に、彼のパーソナリティがこの地域の今後へと続くキーポイントになると感じるようになりました。
昨日は屋根上の作業後にこの町の未来図に関する話になったのですが、使い込んだ地下足袋姿の彼は少女漫画の主人公のように、瞳をキラキラと輝かせて医院や町の未来を語ってくれました。繰り返すしますが足元は地下足袋です。
輪島市の端で隣接するのは能登町。平成の大合併の影響で発災直後からつい先日まで、のびのびとした住民主体の避難所運営で感心していたのが、この輪島市町野(まちの)地区です。
能登半島には漁業・工芸・観光・農業の特性が見受けられますが、この地は典型的な農業の地域性で、その風景と同じくのどかな人柄に出会うこと多く、厳しい現実と向き合う支援活動の中にも気持ちが和らぎ、つい足を向けてしまう場所です。
詳細は割愛させていただきますが、日常に潜む物事が災害時には浮き彫りにされます。
避難所を役所が管理運営すれば様々な理由をこねくり回して早く出て行くよう促すことになるなかで、避難住民が避難所運営に携わる所では、どうすれば過ごしやすくなるだろうかと工夫しながら、次の行き先である仮設住宅の完成を待つことができそうに感じられます。
そのハンドルを握るのにも手放すのにも相応の苦労があることに変わりはないのですが、ハンドルを握っているからこそ自分たちの意見が反映され、その意見はまちづくりにも活かされていくと思います。
災害が有れ無かれそこに少しでも心地よく住み続けたければ、私はハンドルをお役人に渡すべきではないと強く思います、住民主体とは先ずはそこからでしょう。
今後の復興のビジョンの中に、町野地区の人たちが積極的にかかわっていくことを、期待し、応援していきたいです。
(災害支援団体「チーム神戸」代表・金田真須美さん/兵庫県在住)
【編集部より】復旧すら道半ばの現状、届かない被災者の声
本稿には藤本さんを通じてたくさんの方にご協力をいただきました。被災地の声として地区ごとにまとめていただきましたが、それぞれは1人のコメントではなく、たくさんの方の声を集めたものです。ご紹介した地区のみなさんは、不安や困難に押しつぶされそうになりながらも、今も避難生活を続けています。
復旧すら道半ば、日々の水や食べ物にさえ困難がつきまとう現状を知ったいま、私たちにできることは「関心を持ち続けること」そして「折に触れて何かしらの支援を行う気持ちを持ち続けること」なのでしょう。
自分自身の手の届く範囲でできることを、少しずつ行っていくことが大切だと痛感しています。
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