平安時代の人にとって「出家」はこの世との別れだった。お酒も肉食も恋愛もナシ!当時の葬儀や墓とは?
*TOP画像/道長(柄本佑) 大河ドラマ「光る君へ」 45話(11月24日放送)より(C)NHK
『光る君へ』ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は平安時代における「出家」について見ていきましょう。
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平安貴族たちは地位や人間関係を捨てて出家していた
主要登場人物の多くが『光る君へ』において出家(しゅっけ・すけ)しましたよね。高畑充希さんが演じる定子、本郷奏多さんが演じる花山天皇、そして岸谷五朗さんが演じる為時、柄本佑さんが演じる道長も出家を決めました。
出家とは俗世界と別れ、仏の道に入ることです。男性は髪を剃り、女性は髪を腰のあたりで切ります。
死後、苦しみのない世界に生まれ変わりたいという思いから、この世での人間関係や名誉などをすべて捨て、寺にこもって修行をします。出家後、肉食や飲酒、恋愛は許されません。
大切な人から出家をしたいと告げられると、引き止める人や、悲しみに暮れる人もいました。『光る君へ』には為時から出家すると聞かされた賢子(南沙良)が動揺するシーンがありましたよね。また、このシーンでは為時がお寺に入るわけではないと賢子に話していましたが、史実においても出家=お寺に入るというわけではありませんでした。例えば、道長の父である兼家は別邸を寺院にした在宅出家でした。
平安時代、高齢を理由に出家する人だけではなく、この世で生きることがつらくなり、出家する人もいました。例えば、定子は兄である伊周が花山院に矢を誤って放つなどの不祥事を繰り返し、自身の宮中での立場もあやうくなり出家を決めました。また、フィクションの世界の話ではありますが、『源氏物語』において女三の宮は病と罪の意識から出家していますし、藤壺は光源氏の求愛から逃れるかのように出家しています。
藤原為時は三井寺に出家
為時は80歳頃まで生きたといわれています。わが子である紫式部や惟規よりも長く生きました。
為時は越後守を務めた後しばらくして、三井寺(滋賀県)に出家します。紫式部の家族にとって三井寺はゆかりの場所です。紫式部の異母兄弟であり、為時の息子である定暹は三井寺の阿闍梨(あじゃり)でした。
為時が出家した時期の前後には、孫の賢子が彰子に出仕するために内裏に入ったといわれています。わが子がこの世を去り、孫娘も成長して立派になり、彼は余生を寺で過ごすことに決めたのかもしれません。
平安時代の人にとって死は隣り合わせ
平安時代の人にとって死は身近なものでした。疫病は繰り返し流行っていましたし、出産は死と隣り合わせだったためです。
また、『源氏物語』には浮舟が川に身を投げ、自殺したと思われるシーンがありますが、自殺という概念もありました。平安時代は激しい戦こそなかったものの、おだやかで、平穏に過ごせた時代というわけではなく、貴族も庶民も生きづらさを感じる時代であったのは確かでしょう。
平安時代において死はケガレと考えられていました。このため、790年代以降、平安京周辺に住む人たちは家族を家のそばに埋葬することが禁じられていました。また、都には道長のような有力者のものであっても墓が置かれることはありませんでした。
平安時代における葬儀と墓
道長の一族など有力者が亡くなるとお寺に送られ、棺桶に入り、火葬された後、墓に入りました。貴族は火葬されることが多かったものの、定子のように土葬される人もいました。
この時代、墓は夫婦で別々であったことも多かったようです。道長と倫子はそれぞれ別の墓に入っています。
また、貴族であっても身よりがない人は病気になると河原や鳥野辺に連れて行かれ、そのまま放置されることもありました。さらに、骨の扱いについても確かな決まりはなかったようで、行成の妻のように散骨される貴族もいました。
庶民については土葬が多かったというのが通説で、卒塔婆(そとば)を建てて、墓の目印にしていたといわれています。
参考資料
昭文社 出版 編集部 (編集)、竹内正彦(監修)『図解でスッと頭に入る紫式部と源氏物語』昭文社 2023年
大角修 (監修)『日本人の「地獄と極楽」: 死者の書『往生要集』の世界』PHP研究所 2014年
岡本梨奈『一気に読める 源氏物語』幻冬舎 2024年
服藤早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』NHK出版 2023年