えっ!刀狩りも太閤検地も豊臣秀吉の独創じゃないの!?史実からみる「豊臣秀長は有能で善人」説の真相

2026.09.29 LIFE

結局、豊臣秀長って何がすごいの? 

『豊臣兄弟!』の主役は、豊臣秀長(仲野太賀)。しかしながら、秀吉(池松壮亮)のインパクトがあまりにも強く、さらに織田信長(小栗旬)や徳川家康(松下洸平)の存在感も並々ならぬものがあるため、秀長の活躍ぶりが今一つ分かりにくいといった声もSNSなどで見られます。

 

史実において、秀長は調整力やコミュニケーション力、創造力を活かし、さまざまなシーンで活躍しました。秀吉が異例の出世を成し遂げられたのも、補佐役の秀長の存在があってこそといって過言ではありません。

 

中国攻めで“秀長らしさ”を発揮

織田信長の命令で始まった中国攻めにおいて、秀長は秀吉から但馬・竹田城の攻略を命じられました。竹田城までの険しい道のりを乗り越えるため、秀長は荷物を分担して運び、疲れる前に運搬を交代するなどの工夫を凝らしました。一部の者だけに負担を押し付けるのではなく、全員でなるべく分担するやり方を提案した彼の姿は、『豊臣兄弟!』で描かれる秀長の姿とも重なります。

秀長は約3000人の兵で竹田城を包囲し、調略と交渉に加え、鉄砲による射撃も行い、3日で落城させました。

 

持ち前の交渉力を活かし、毛利家との交渉に成功

秀長は毛利一族との和睦交渉でも重要な役割を果たしました。本能寺の変で信長が亡くなった後、秀吉は明智光秀討伐のため京へ戻る必要がありました。秀長は信長の死が知られないよう情報を厳重に管理し、兵站(へいたん)の手配も迅速に成し遂げました。さらに、秀長は秀吉軍の殿(しんがり)も務めています。

秀吉は秀長の兵站支援がなければ、中国大返しを成功できなかったかもしれません。毛利家との和睦も、秀長の最終的な調整によって成立しました。秀長のこの活躍は本作の第28話「急げ!秀吉」に脚色を加えつつ、描かれています。

 

晩年は天皇の接待も!?

1587年には、秀長は“大和大納言”と尊称されるようになりました。この頃から、諸大名や公家を集めた北野大茶会、聚楽第(じゅらくてい)に後陽成天皇を迎える聚楽第行幸( じゅらくだいぎょうこう)など、政にもかかわる重要な任務もこなしています。

 

▶太閤検地や刀狩りは誰の発案?

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