知らないと赤っ恥!貝塚は①台所②お墓③ごみ捨て場のどれ?【オトナの歴史クイズ】
先史時代の遺跡として知られる「貝塚」。日本中さまざまなところにあるので、行ったことがある人や、博物館で貝塚からの出土品を見たことがあるという人もいるでしょう。
貝塚は本来なにに使われた場所だった?
① 台所
② お墓
③ ごみ捨て場
「不燃ごみ」はむかしから存在していた
正解は「③ ごみ捨て場」です。
海の近くなど、貝類を日常的に食べていた土地に住んでいた先史時代の人々が、食べ残した貝殻をほかの廃棄物(ごみ)といっしょに決まった場所に積んでいました。これが、丘や塚のように盛り上がったことから、のちに貝塚と呼ばれるようになったのです。もっとも、それほど大きくない「貝塚」も存在していますし、貝の加工場だったという説もあります。
現在でいうところの「燃えないゴミ」の集積所ともいえ、貝殻だけではなく、そのほかの食べ残した獣や魚、鳥などの骨、土器や石器、骨角器も捨てられていました。そのほかにも灰などが見られるため、貝塚を発掘することで、当時の人々の暮らしがわかります。縄文時代の貝塚は、日本列ではおよそ2,500も見されていますが、なんとその4分の1近くは東京湾の東沿岸一帯に存在。なかでも多いのは加曽利貝塚(千葉市若葉区)などがある千葉県で、世界一の分布密度が高さを誇るのです。そのほか大阪湾や仙台湾にも貝塚は集中しています。干潟が発達した大きな内海であることがその理由です。なお、当時の人々が住んでいた竪穴式住居の隅にごみを堆積させていた程度の、ちいさな貝塚も多く発見されています。
1877年(明治10)年にアメリカ人の動物学者であるE・S・モースが発見した大森貝塚の調査が日本における貝塚の研究の始まりとなりました。モースが通勤途中の列車の車窓にたまたま目を向けたことが日本における貝塚の発見につながり、大森貝塚は日本の考古学の発祥地と見なされることになったのです。大森貝塚の跡地は整備され「大森貝塚遺跡庭園」となっています。ここではモースの銅像や貝層の標本など、縄文時代・大森貝塚について学習することができます。
縄文がブームになり、縄文土器の文様や土偶などから縄文人のこころに思いをはせる人が増えています。けれども、貝塚に興味を持つ人はあまり多くないようです。けれども貝塚の跡地が整備されて講演などになっていることもたくさんありますし、歴史系の博物館では常設展入り口からすこし進むと貝塚の様子をみられるところが多くあります。ごみとして捨てたものが何千年を経て現在にまで残っているのも、またひとつの歴史ロマンだといえるかもしれません。
【参考】
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