小島瑠璃子の熱愛がたどるかもしれない「あのオンナと同じ」末路
アベちゃんこと安倍晋三首相が健康上の理由から、総理大臣を辞任することを発表し、目下、次の総裁は誰かに注目が集まっています。ま、決まったも同然ですが。
進次郎の人気が下がったのは、クリステルのせい?
自民党有数の人気者、小泉進次郎環境大臣も総裁選へ立候補かと思いきや、早々に不出馬を表明しています。
今出ても絶対勝てませんから、賢明な判断だと思いますが、一時期、次の総理大臣としてもてはやされたことを考えると、進次郎ブームが落ち着いてきてしまっている印象はいなめません。
9月2日付の東スポWebでは、そんな進次郎について「滝クリに“サゲマン”危機! 空回り続く夫・進次郎氏に「政治オンチ」の声」と報じています。
進次郎が自民党内の若手から人気がないこと、マスコミからの取材が減ったことを進次郎が気にしていることが書かれています。
が、ここで一つ大きな疑問が。なんで進次郎がイマイチだと、滝クリがサゲマン呼ばわりされるんでしょうか。
進次郎と言えば、環境大臣に就任してからのセクシー発言や、新型コロナウィルスに感染するリスクが高いゴミ収集員に感謝を表すために、ゴミ袋に絵を描くことを提言するなど、私からすると「……ちょっと、この人大丈夫?」と思える発言が多い。
政治家の家に生まれ、お父さんも総理大臣、本人もイケメンということで、イメージがいいだけにおかしなことをすると「ダメじゃん」と他の人の二倍悪く言われてしまう運命にあるとは思います。
が、いずれにせよ、それらの発言に妻である滝クリはまるっきり関係ない。女のせいにするのもいい加減にしろと言いたいです。
アゲマンという名で責任転嫁するオトコたち
アゲマン、サゲマンという言葉が広まったのは、おそらく1990年の伊丹十三監督の映画「あげまん」がきっかけではないでしょうか。
もともとは花柳界用語で、愛した男(花柳界の場合、ダンナ)にツキをもたらす女性のことを指したそうです。
花柳界なら、そういう言葉があってもおかしくないと思うのです。だって、ビジネスだから。
花柳界には政治家や芸能人など、ツキが必要な仕事をしている男性がたくさん通ってくるでしょう。
彼らがゲンを担いでそういう女性とつきあいたいと思うのもある意味当たり前ですし、女性側や置き屋が「私(もしくは、あの子)はアゲマン」と売り出すのも当然のことでしょう。
商品にキャッチコピーは必要です。そういう女性とつきあいたいと思ったら、花柳界の場合は男性はそれなりにお金を積む必要があるでしょう。ですから、女性がアゲマンを自称することで、女性、置き屋みんなが潤うのです。
仮にそんなにお金はないけれど、アゲマンとつきあいたいと思うのなら、男性はオトコとしての魅力で勝負しなければなりません。
となると、「アゲマンとつきあったから、出世した」のではない。
「すでに成功してお金を持っているから、アゲマン女性とつきあえる」もしくは「出世するような魅力もしくはツキを持っているから、同じくツキを持つアゲマン女性とつきあえた」というのが正しいのではないでしょうか。
YouTubeに「あげまん理論」なるものがあり、「あげまんは男性に気づきを与える」とかなんとか言ってましたが、こういう上から目線の受け身体制、どうにかならないんですかね。
自分の不出来を女のせいにするのはやめてもらいたいですし、花柳界のようにお金が介在していない世界の女性に、アゲマン、サゲマンという用語を使わないでほしいと思います。
また一人、「糟糠の妻」が捨てられた……
しかし、日本は本当に「オトコの出世は、オンナ次第」という考え方が好きな国です。
それでは、男性を支える「糟糠の妻」になれば、万事まるくおさまるかというと、決してそんなことはないのであります。
目下、タレント・小島瑠璃子の略奪愛疑惑がささやかれていることをご存じでしょうか。
超人気漫画「キングダム」(集英社)の作者である漫画家・原泰久センセイとこじるりの福岡デートを「週刊ポスト」(小学館)が報じました。
が、疑問を感じた人も多かったことでしょう。原センセイは三人のお子さんをもつ既婚者だったはず。いつ離婚したのか、こじるりが略奪したのではないかとザワザワした人もいたようです。
「週刊文春」(文藝春秋)によると、事態はもっと複雑で、原センセイはすでに芸能界を引退している元アイドルAさんと不倫関係にあったそうです。が、「妻とは別れる」と言いつつも離婚をしなかった。
なぜなら、その頃、センセイはこじるりと出会ってしまったから。Aさんが「身を引いた」形で芸能界を引退したら、こじるりが彼女ポジションにおさまったということのようです。
最近、二人のアツアツ(死語)デート写真が週刊誌を頻繁ににぎわせています。
が、心の汚い私に言わせると、写真をわざと撮らせているのかなぁ、こうやって「私は彼女です」「誰も手を出すなよ」と結婚への外堀を埋めているのかなぁと思えて仕方ありません。
日本人女性よ、糟糠の妻を目指すのはもうやめよう
原センセイの前妻と言えば、サラリーマンだったセンセイに漫画の道を進めた糟糠の妻です。
「情熱大陸」(TBS系)で、奥さま(当時)は「信じるしかない」と話していましたが、この控えめな感じが日本人ウケする「ザ・糟糠の妻」なのだと思います。
しかし、そうやって支えた夫が糟糠の妻を捨てて、きれいどころの芸能人と結婚するというのは、本当によくあるお話です。
そういう運命なのかもしれませんが、「男性の判断には、無意識に性的メリットが絡む」「男性は性的メリットを優先する」と常日頃思っている私に言わせてください。
「糟糠の妻」となって、夫を華やかな世界にプッシュすることは「私を捨ててください」と自分から言っているのと同じで、一種の自傷だと思います。
それでも、また「糟糠の妻」的な存在に憧れてしまうのだとしたら、それは「夫を出世させられれば、自分という存在に価値があると思える」という依存心ではないか。もう一度考えてみてもいいかもしれません。