結婚詐欺にあい39歳で世を去った娘に伝えたい、私はあなたの母として使命を果たすと。67歳が絶望から生還した一部始終

2023.01.04 WORK

「新しくセミナーを始めました、企画書を見ていただけませんか」。長岡まりさんからそんなメールをいただいたのは師走の入り口ごろでした。何度かのやりとりのあと、セミナーを始めるまでの経緯を綴った原稿が送られてきました。

「ごめんなさい、言いたいことがたくさんありすぎて、1万字をゆうに越えてしまいました」。

そんな長岡さんを簡単にご紹介すると、現在67歳の働く女性。結婚相談サービス業界で活躍するものの、うつ病に罹患したお嬢さんを亡くしたうえ、結婚詐欺で自身の老後資金も失った経験を持ちます。このあまりにもつらい体験を乗り越え、新たにコーチングをスタートしました。

これほどまでのことが起きたとき、私たちならばどう乗り越えるのでしょう。長岡さんの半生を語っていただきました。

 

夫の家業を継いだが、夫は家に寄り付かなくなった。事業は拡大したが

ワインレストラン時代の長岡さん。

大学卒業後すぐに結婚した長岡さん。夫の出身地方へ引っ越し、実家の酒屋さんを一緒に手伝うようになりました。しかし、夫は2人の子どもの出産前後から外に出かけ、家に寄り付かなくなってしまいます。そんな夫をあてにするのはやめて、自分自身が酒屋業に情熱を傾けるように。

 

「とはいえ当時はスーパーなど大型量販の進出で酒屋の衰退がはじまったころ、酒屋業に輝かしい未来は感じられませんでした。そこで思い切ってワインレストランへと事業転換を行い、当時としては珍しいワインの飲み比べなどを提供。これが大当たり、地域気鋭の新店として勢力を拡大しました」

 

しかし、長岡さん45歳のころ、徐々に更年期の症状の自覚が始まります。47歳になるころには抑うつ症状が出るように。死んでしまいたいと思う日も続きましたが、子どもが自立するまでは離婚せずこのままこの土地で仕事をがんばると心に決めていたため、身動きが取れなくなってしまいます。

 

そんなある日、同僚との雑談でつい死にたいと口にしたところ、「自殺未遂をするなら紐はうんと丈夫なものを用意しないと」と真顔でアドバイスを受けました。意外な返事に面食らった長岡さんは「こんな暮らしをしてちゃダメだ」と一気に目が覚め、離婚を決めました。ワインレストランを廃業し、東京に出ようと考えたのです。

 

レストランを閉店して東京へ。あれこれ働くうちに結婚アドバイザーという仕事にめぐり合う

まだ小さかったころの2人の子どもと長岡さん。離婚前、まだ暗い顔をしていた時代の1枚。

お店を畳んで東京にでることは決めていましたが、仕事をどうするのかはまったく考えていなかったという長岡さん。行き当たりばったりながらも「なんとかなる」と楽観的でした。

 

「ただし、仕事もない48歳の女性が東京で部屋を借りるのは難しいことには気づいていました。なので、最初の住まいは子どもたち二人が進学と就職のため一緒に暮らしていた賃貸マンションに間借りすることにしました」

 

すでに就職していたため家を借りやすい息子さんに出てもらい、長岡さんと娘さんが住むことに。このマンションの契約者は元夫でしたが、しばらくは頼るしかないと割り切ったそう。3年間は、近所のパン屋での早朝のパートから始め、スーパーのお酒売り場での試飲会担当や派遣でコールセンターのスタッフなど様々な仕事を経験。そして大手結婚情報サービス会社の結婚アドバイザーという仕事に出会います。

 

「当時は、まだ結婚情報サービスを利用して結婚相手を探すのは、恥ずかしいこと、隠れてこそこそやるものという時代でした。しばらくすると、担当者である私を信頼して入会してもらっても、じゅうぶんなサポートをしてあげられないことに申し訳なさを感じ始めました」

 

また、入会時に多額の入会金の支払いにローンを組ませるのも苦痛だったそう。「結婚のお手伝いをする」という仕事自体は面白く、魅力的だったため、結婚情報サービスではなくもっと丁寧にサポートができそうな「結婚相談所」に転職しました。

 

「ですが、ここでも多額のお金がかかることや、経営方針への違和感などから、1年ほどで退職を考えるように。結婚情報サービスと結婚相談所の大手を経験したことで婚活業界に対する違和感、不信感が大きくなり、もう婚活業界で働くのはやめようと決心しました」

 

パートナーエージェントとの出会い、51歳の最高齢正社員として入社

そんなとき、長岡さんは書店で就職雑誌を手にとり、婚活ベンチャーの(株)パートナーエージェントの求人広告を見つけました。「この国の結婚情報サービスは、信用されていない。この業界を変える!」そんなキャッチプレースに惹かれて前言撤回、履歴書を一気に書きあげます。しかし、送るかどうかは長く悩みました。

 

「なぜなら、その求人要項には年齢が45歳までと書いてあったからです。当時私は51歳。送ったら年齢ではねられると思い、迷って迷って、最後に思い切って先に電話をかけてみました」

 

当時は法改正前で、こうした年齢の明示も可能でした。電話口では担当者から色々質問を受け「履歴書は郵送しないで持ってきてください」と言われました。翌日、店舗に履歴書を持って出向いたところ、30代前半の若い男性が出てくるやいなや「僕はこんなサービスを作りたいんです!」と情熱的に語り始めました。あっけにとられる長岡さんに話し続ける「こういうサービス・会社を作りたい」思い。それはとても魅力的で、聞けば聞くほど婚活業界への疑問や不信感が払拭されたといいます。

 

「気がついたら、そんなサービスを作りたいですね!と共感し握手していました。帰ってから、あの人は誰だったんだろうと思っていたところ、人事担当者から採用になりました!いつから入社できますか?と電話が。あれが面接だったの?私は誰とお話したのですか?と聞いたら、あれが社長の佐藤ですと」

 

当時、佐藤氏は33歳。あの若い人が社長!と驚いたそうですが、これが長岡さんとパートナーエージェントとの出会いでした。求人募集の45歳という壁を越えて、51歳で最高齢正社員として採用されました。

 

新たな職場で女性ならではのさまざまな悩みに接し、女性の人生そのものも考えるように

社員として働き始めた長岡さん。最初はコンシェルジュという会員サポートの仕事につき、さまざまな婚活中の男性や女性に会いました。仕事を通して時代の流れや、家庭の影響を受けているのが婚活だと知り、家族社会学を学び始めたのもこの頃でした。

 

例えば、専業主婦母親の呪縛。「仕事を持って自立しなさい」と母のできなかった夢を娘に託され仕事を頑張ってきたけれど、30歳目前になると「仕事だけしてないで、結婚は?孫の顔を見せて」と母親から責められるのです。手のひら返し、裏切られた思いに駆られる女性が少なからずいた時代であり、真面目で優秀な女性ほど、母の言うとおりに頑張ってしまうとも感じました。

 

母親は専業主婦で、お手本になる働く先輩女性がいないし、プライベートな話を誰にも話せずひとりで抱えこんで苦しんでいる。なんとか力になれないか。長岡さんはそう悩みながら、相談に乗っていました。

 

「個人の問題とされがちな結婚ですが、実は、少子高齢化や氷河期世代の貧困、離婚によるシングルマザーの貧困など、時代と切って切り離せないものと実感するようになりました。そして、婚活だけでなく、結婚の背景についても考え続けるようになりました」

 

大阪での新店舗立ち上げ。激務の末に脳出血を起こし「自分の使命」を考え始めた

2010年までは東京のみで展開していたサービスでしたが、地方への展開を始めようと準備していたのが2011年。初めての地方出店大阪店のコンシェルマネージャーを任され、3月末から大阪に赴任することが決まっていました。そこへ、3月11日に東日本大震災が発生します。地震後の混乱の中で、予定通り新店舗立上げのため大阪に出発しました。

 

「もちろん不安だらけでした。東京駅は節電で真っ暗。本当に大丈夫なの? けれど、新大阪駅につくと駅は明るくてとってもホッとして。人々の顔も暗くはありませんでした。大丈夫かも……。そう思った瞬間でした」

 

ご存じの通り、震災をきっかけに「家族の絆が欲しい」と婚活する人が増加し、会社の業績は急激にアップ。その勢いでまたたく間に全国展開が進みました。大阪店は半年後に黒字化。その後、福岡店立ち上げのサポートに行き、6月に東京に戻ります。

 

「ところが私は東京に帰ってすぐ、脳出血を発症し、入院することになりました。その時、56歳。まさに青天の霹靂でした。自分ではこのくらいのハードさは大丈夫と思っていましたが、大阪・福岡での想像以上に多忙な生活が身体にかなりの影響を与えていたんですね。けれど、奇蹟的なことに出血した場所がよく、なんの後遺症もありませんでした」

 

入院中にリハビリ室に行くと、そこには必死にリハビリに励む多くの人々が。若い人も多い中、何の後遺症もない自分を考えて、長岡さんは「これは奇蹟なんだ。生かされた命なんだ」と思うようになりました。「この命をどう使うか?無駄にしてはいけない」と思い始めたのです。

 

いろいろ試行錯誤するものの、肝心の「自分の使命」はなかなか見つからない

20日間の入院後、1ヶ月の自宅療養を経て、仕事に復帰。本社の研修チームへ異動になりました。

 

「体調が落ち着くと研修チームの一員として、東京だけでなく、地方の店舗の採用後の新人研修や社員の悩み相談のため、全国へ出張する日々が始まりました。この頃は、会社の規模も大きくなり、若い女性社員が増えていました。それに伴い、出産・子育て後も働き続けられるか?など共働きの悩みも多く聞かれるようになったので、私に白羽の矢が立ったのです」

 

そんな中、産休・育休を全社で初めて取得した社員から「育休後戻ってこれるでしょうか?」と相談を受けました。長岡さんの答えは「辞めないで!あなたが辞めないでこうしてほしいと発信することで制度が後をついてくるから、後輩女性達が後に続く道になるから」。彼女は育休後も辞めず、管理職になって今でも働いています。

 

脳出血後、「生かされた命をどう使うか?」考え続けていた長岡さんですが、答えは簡単には見つかりません。そこで、取り敢えず何か始めよう!と考え、コーチングの勉強を始めました。

 

「コーチングスクールで出会った様々な年齢や職業の仲間とは今でもお付き合いがあります。会社の仲間しかお付き合いのなかった私が会社以外の仲間との出会いを得た最初がコーチングスクールでした。会社以外、仕事以外の仲間を持つ大切さを感じる事になりました」

 

ここまで長岡さんの前半生ともいえる、逆境を乗り越え、病を得ながらも着実に仕事と自分の折り合いをつけていく過程をご紹介しました。しかし、ここから再び長岡さんの運命は激変します。

 

後編▶『ある日、帰宅したら娘が冷たくなっていた。そこからの記憶があまりないのですが、気が付いたらもう娘は

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