坂本龍馬は「組織の中でうまくやろうと思わない」性分だった!? 広い視野で幕末を泳いだ「本当に自由な生き方」とは
誰もやらないなら…自分でやっちゃうおう!の精神
脱藩によって自由を手にした龍馬は、江戸に出ると幕臣・勝海舟のもとを訪ねます。外国人を追い払う攘夷思想にかぶれていた龍馬は、当初、開国派の勝を斬ろうとしたといいます。しかし、勝に世界情勢を説かれてその見識に感動し、その場で弟子入りしたという話も──。
けれど、これは後世の脚色で、史実の龍馬は勝とともに佐久間象山(*)の私塾に入門していました。そのなかで国防や海外事情を教えてくれる勝に感謝し、改めてその弟子になったのです。
*幕末の思想家。海外事情を研究し、江戸で兵学・砲術の私塾を開いた。
「勝先生こそ、これからの日本に大切な人。ついていくぞ!」
どこかの藩に所属していたら、こんな好き勝手は許されませんから、脱藩こそが、その長所を最大限に引き出す起爆剤になったといえます。
弟子入り後は、勝を補佐する形で神戸海軍操練所の設立に尽力、1863年にはその横に開設された私塾の塾頭になります。ところが頼りにしていた勝が突然、翌年に失脚し、操練所は解散になってしまいます。
「幕府は何を考えとるんじゃ。海軍の増強は一刻を争うのに!」
しかし、この時期に龍馬は勝の紹介で、松平慶永・横井小楠・大久保一翁といった藩主クラスから学者、幕府の重鎮まで、時代を担う多くの重要人物と出会い、西郷隆盛とも知り合っています。尊敬する人の言うとおりに動き回っているうちに、すごい人脈が形成されたのです。
「誰もやらないなら、自分で一大勢力を築こう!」と、1865 年、龍馬は薩摩藩の保護を得て、長崎に亀山社中(*)を結成し、通商海運業を始めます。この仕事で各藩のキーマンとの人脈はさらに広がり、翌年の薩長同盟につながりました。
*龍馬が仲間と設立した海運貿易会社。のちの海援隊。
▶自由すぎた? 薩長同盟の翌年に暗殺