附属池田小学校児童殺傷事件「長机に横たわり動かない子どもの姿が見えました」かなしみとともに生きるということ

2001年に発生した大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件の遺族、本郷由美子さんは、人の悲しみに寄り添う活動「グリーフケア」の先駆者として今も人々のさまざまな悲嘆に向き合います。

 

本郷さん2冊目の書籍『かなしみとともに生きる~悲しみのグラデーション』の冒頭では、本郷さんが20代後半にして向き合うことになった1つ目の悲嘆、1995年1月の阪神・淡路大震災での体験が語られます。

 

地域すべてがトラウマに包まれる中「私が生きていていいのだろうか?」と感じるサバイバーズギルトの状態に陥った本郷さんですが、その6年後、傷が癒えるか癒えないかのタイミングで、さらなる喪失と言える池田小事件に襲われます。

(本稿は書籍内容を抜粋、再編集を行いました)

 

大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件、その一報は

震災後、しばらくしてから大阪府池田市に引っ越しました。この地で、人生を根底から覆す二つ目の体験をすることになります。それは震災から6年後のことでした。大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件に巻き込まれたのです。

 

2001年6月8日、家庭の次に子どもたちにとって安全な場所、平和な学校に刃物を持った男が侵入。幼い児童8人のいのちが奪われ、13人の児童と2名の教員が重軽傷を負いました。日本のみならず世界中を震撼させた事件と言われています。

 

事件から2年後の2003年8月に大阪地裁は加害者に死刑判決を言い渡し、刑が確定しました。翌年2004年9月に死刑確定から1年という異例の速さで刑が執行されました。

 

今度は天災ではなく、殺人という人の手によって、人生を根底から覆されるような喪失体験をしたのです。最愛の娘・優希のいのちを奪われ、今まで生きてきた人生そのものが崩壊するような衝撃でした。

 

事件が起きたその時間、私は学校近くのスーパーで買い物をしていました。優希と家でクッキーを焼く約束をしていたので、その材料を買いに行ったのです。買い物をすませて車に戻り、エンジンをかけると、慌てているようなアナウンサーの声がラジオから耳に飛び込んできました。

 

「大阪教育大学附属池田小学校に刃物を持った男が乱入。低学年の児童が多数刺された模様です……」

 

えっ、大阪教育大附属? まさか……。一瞬聞き間違いではないかと思いました。

 

当時PTAのクラス委員をしていた私は、緊急時は家に戻って学校からの連絡を待つべきか、すぐに学校に向かうか……どのように行動したらいいのか判断がつきかねました。

 

パトカーや救急車のサイレン、ヘリコプターの操縦音も聞こえてきました。ラジオから繰り返されるアナウンスに、何かとんでもない事件が起きたことを確信した私は、学校に向かって一直線に車を走らせました。

 

学校の周りには既に人だかりが見え、正門前には女性警官が立っています。優希、どうか無事でいて! 女性警官に「保護者です!」と伝え、祈るような気持ちで門の中に全速力で走りました。正門を入ったすぐ脇にある木の横に、保護者が数人いました。娘の同級生の保護者がいたのでそばに駆け寄り、「何があったの?」と尋ねました。

 

「いや……わからないんだけど」。私のいる正門脇から校舎までは数十メートルくらいの距離でしょうか……。

 

校舎のほうを見るとその視線の先に、長机に横たわり動かない子どもの姿が見えました。「なんであの子動かないの……」「本当だ、動かない……」。動かないってことは……もしかして……。

 

信じたくない恐怖感が襲ってきました。私は、ぼうぜんとその場に立ち尽くしました。副校長が校舎の入り口付近で何か叫んでいる様子が見えました。

 

長机に乗せられた子どもたちが次々に運び出され、先生と思われる男性が心臓マッサージをしています。次から次へと到着する救急車やパトカーのサイレンが響き渡り、慌ただしく走り回る先生方、警察、救護の方々、あたりはまるで戦場のようでした。

 

錯綜する話、なすすべもない親、おびえる子ども。そして、わが子が見つからない

早く駆けつけた保護者数名と私は、何も情報がなく、救護のじゃまになるようなことをしてはいけないと、事件直後の惨状をただ見守るしかありませんでした。校舎から子どもたちが校庭に逃げてくる姿が見えました。保護者もどんどん駆けつけてきます。

 

「1年生が刺されたみたい」「2年生も刺されているみたい」誰かの声が聞こえてきましたが、ヘリコプターの音で会話が聞きとりにくい状況でした。「優希は大丈夫かしら……」。携帯電話を持っている保護者たちが子どもの安否を確認しています。私は当時、携帯電話を持っていませんでした。不安になっていると、「ここにいてもしょうがないから、子どもたちのところへ確認に行こう」と友人が声をかけてくれました。

 

校庭に集まっている娘のクラスの子どもたちの列に向かいました。「優希ちゃんのママ!」抱きついてくる子がいました。不安そうな視線を向ける子どもたちに「大丈夫よ」と声をかけながら、後ろから順に一人一人確認していきました。

 

途中でクラスの子どもが何人かいないことに気がつきます。身長の低い娘は前のほうに座っているはず……。あれ……いない? まさか……。娘の姿が見えません。何度も何度も確認しましたが姿がありません。「優希が、優希がいない!」。正門前で見た、ただごとではない惨状が頭をよぎり、血の気が引いていきました。

 

「どこにもいないの! 優希がいないの」。わが子を確認した保護者の方が「大丈夫だから、優希ちゃんはどこかに隠れているはず」「隠れていた子どもたちが出てきているから、その中にきっといるから」と私を励ましてくれました。

 

娘の姿は一向に見当たりません。私は校舎のほうに向かいました。途中で目に入った先生方や救急隊員、警察の方にも「本郷優希を知りませんか?」と聞き回りました。誰もわからないと言います。このときどんなに探しても見つかるはずはなかったのです。なぜなら、混乱のため負傷した児童の名前を確認することができていなかったのです。

 

後からわかったことですが、私が学校に到着して一番最初に目に入った先で長机に横たわっていたまったく動かなかった女の子は、実は優希だったのです。娘はあの後、救急車に運ばれたそうです。その後トリアージで黒タグの判定を受けました。

 

黒タグとは、助かる見込みが少なく、助かるいのちを優先することを意味するものです。娘は救急車から降ろされ、重症の児童が病院に搬送され、いのちをとりとめました。救急車から降ろされた優希は、その悲惨な姿を報道カメラマンに映されないようにとの救急隊員の配慮で、ドアもカーテンも閉ざされた、最後まで動くことのない別の救急車内に収容されていました。既に死亡が確認されていたため、搬送されたのは事件発生から40分も経過してからでした。

 

私は娘の名前を叫びながら、その救急車の横を何度も通って娘を探していたのです。そのころ、仕事先から主人も学校に駆けつけます。優希が負傷したらしいことを同じクラスの男の子たちから聞いたものの、学校は大混乱で、負傷児童がどの病院に運ばれ、どういう状況であるのか、まったく情報がつかめないため、携帯電話を持っていた主人は、救急搬送されたと考えられる病院に電話をかけ、搬送された病院を探し出して向かいました。

 

くずれ落ちる体を支えられ、うめき声のように声を絞り出しながら

一方、私は「保護者は体育館に集まるように」と言われ、体育館に移動します。そこで、どれくらい待たされたでしょうか。負傷した児童の名前が伝えられ、優希の名前と搬送された病院が読み上げられました。優希が負傷して病院に搬送されたことを知ったのは、学校に駆けつけて1時間が経過してからでした。

 

呼吸が止まりそうになりました。早く病院に行かなくてはと思い、パニックになりそうでした。私の周りには、自分のお子さんの無事を確認したお母さんたちが心配して集まっていました。

 

次女と同じ幼稚園で同年齢のお子さんを持つお母さんもいました。幼稚園にいる次女のことが心配になり、「〇〇のことをお願いしていいかな」とお迎えを頼みました。「〇〇ちゃんのことは大丈夫だから」その言葉を聞いてから「優希のところへ行く」と伝え、走ろうとしましたが、足が前に進みません。

 

くずれ落ちそうになる体を周りの方に支えられて体育館から外に出ると、「娘が刺されました」とフラフラになっている私を見た救急隊員が声をかけてきました。名前を聞かれたので「本郷です」と言ったように思います。

 

救急隊員の誘導で救急車に乗り、優希が運ばれた病院に急行しました。「優希はどこですか? 運ばれたと聞いています。会わせてください。ママに会いたがっているはずです」と、うめき声にしかならない声で頼みました。

 

一人の看護師さんが落ち着いた様子で「今、処置をしています」と優しく声をかけてくれて、私を車椅子に乗せて「本郷様」と書いてある個室に案内してくれました。個室には、自力で病院を探した主人の姿がありました。

 

入浴剤を入れた洗面器で最後に娘の髪を洗うことができた。入浴剤はみるみる赤く染まった

個室で医師からの説明を受けるまでの時間を、どれほど長く感じたことでしょう。ようやく通された処置室には、わずか5時間前に「行ってきます」と笑顔で登校した優希がただ静かに眠っているように横になっている姿がありました。「少しでも温かいうちに頰ずりしてあげてください」と医師から言葉をかけられました。「寝ているだけよ……」そうつぶやきながら娘のそばに行きました。

 

病院の皆さんが、せめて私たちに悲惨な姿を見せまいと、限られた時間の中で娘の体をきれいに整えてくださっていたのです。優希の体は深い傷を負ったとは思えないほどきれいになっていました。その顔はほほえんでいるようにさえ見えます。私は主人と二人で優希に語りかけながら、まだわずかに温かさの残るその体を、何度も何度もさすりました。

 

私は子守り歌を歌いながら優希の手をとり、指を一本一本なでようとしたとき、爪の奥まで血がしみ込んでいることに気がつきました。髪もぬれていることに気づきました。触れてみると手が赤く染まりました。

 

看護師さんに「娘の爪をきれいにしてあげたい」「髪もきれいにしてあげたい」と伝えると、すぐに爪切りを用意してくれました。爪をきれいに切るとその爪を紙に包んで、私に持たせてくれました。

 

髪は、入浴剤を入れた洗面器を用意してくださったので洗うことができました。乳白色の入浴剤はみるみるうちに赤く染まりました。その様子を見ていた一人の看護師さんがブラシを持ってきてくれました。ブラシで髪をきれいに整えることができました。このブラシは後日、看護師さんから「あのときのブラシです」と送っていただきました。最後に優希の髪を整えたブラシは今も大切に私の手元にあります。

 

このときの看護師さんの対応は、喪失直後の混乱期における遺族にとって大切なグリーフケアだと思っています。詳しいことは、日本死の臨床研究会が発行している『死の臨床』特集号に「犯罪被害者遺族のグリーフに寄り添う―死の受容に関わってくれた医療関係者」に寄稿しています。

 

病院でやっと優希に会うことが叶いましたが、検死や司法解剖が行われるため、わずかな時間しか一緒にいることができませんでした。切り上げなければなりませんでした。検死と司法解剖が終わり再び優希に会えたのは、深夜になっていました。報道陣が押しかける自宅に戻れたのは、深夜1時を回っていました。「静かにしてやってくれ」マンションの住民や近隣の方々の声が響きました。

つづき▶附属池田小学校児童殺傷事件、止まっていた時間が動き始めた「最後の68歩」。母が重ねる思いは

かなしみとともに生きる ~悲しみのグラデーション~』本郷由美子・著 1450円+税/主婦の友社

本郷由美子さんが経験した2つのあまりにも大きなグリーフ、「阪神淡路大震災」と「附属池田小学校児童殺傷事件」。こんにちのグリーフケア活動に至るまでの長い長い道のりと、そのまなざしで見つめたさまざまな悲しみのかたちを綴ります。いまかなしみを抱えて「今日と同じ明日がくるならもう明日はこないでほしい」と願う方、小さなかなしみを抱えているるけれど「それほど大変ではないから」と自分の心も覆っている方、そして身の回りにかなしみの種を感じる方。どうぞ本郷さんの心に触れてください。

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