附属池田小学校児童殺傷事件、止まっていた時間が動き始めた「最後の68歩」。母が重ねる思いは
2001年に発生した大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件の遺族、本郷由美子さんは、人の悲しみに寄り添う活動「グリーフケア」の先駆者として今も人々のさまざまな悲嘆に向き合います。
本郷さん2冊目の書籍『かなしみとともに生きる~悲しみのグラデーション』の冒頭では、本郷さんが20代後半にして向き合うことになった1つ目の悲嘆、1995年1月の阪神・淡路大震災での体験が語られます。
地域すべてがトラウマに包まれる中「私が生きていていいのだろうか?」と感じるサバイバーズギルトの状態に陥った本郷さんですが、その6年後、傷が癒えるか癒えないかのタイミングで、さらなる喪失と言える附属池田小事件に襲われます。
前編『附属池田小学校児童殺傷事件「長机に横たわり動かない子どもの姿が見えました」かなしみとともに生きるということ』に続く後編です。
(本稿は書籍内容を抜粋、再編集を行いました)
長く止まった時計。2つの時間「クロノス」と「カイロス」への気づきで動き始める
「あのときのまま時間が止まってしまった」という言葉を耳にすることが多いと思います。また、経験したことがある方もいるかもしれませんね。私も小学校2年生の娘、優希を喪った附属池田小学校事件以降、本当に時間が止まってしまったのです。
「今を生きる時を刻む時間」と「亡き娘と刻み、あのときに止まってしまった時間」、私はこの二つの時間を持ってしまったということを、きちんと自分で意識しないと生きていけないと思いました。
時間には「クロノス」と「カイロス」の二つがあると言われます。「クロノス」は、今の時を刻んでいく時間。「カイロス」は、時計の針とは無関係の質的な時間、こころの中で成熟していく時間と言われています。
今を刻む時間「クロノス」は残酷な時間で、とても受け入れたくない時間でした。淡々と時間は平等に過ぎていきます。苦悩しながらこなしている自分がいました。
あのときのまま動かない「カイロス」の時間との差がどんどん開いていくことを感じると、世間の流れに置いていかれるような孤独感が深まり、不安と苦悩でいっぱいになりました。
現実に起きたことを受け入れることができず、娘は亡くなってしまったのだとあきらめることがどうしてもできなかったのです。そのような中、それぞれの遺族に対してサポートする教員が一人ずつつくことになりました。
わが家の担当は菅井先生で、私は当時抱えていた苦悩を相談しました。そのときの菅井先生の言葉を今でもはっきり覚えています。「“あきらめる”ということは、仕方がないと思いを断ち切る、断念するということではなく、“明らむる”こと、つまり明らかにすること、はっきり自覚することなのです。何を明らむるかと言えば、優希ちゃんは永遠に生き通しの生命であることを、深く明らかに自覚することです」
手放すことでも、なくすことでもない、救いを感じました。なるほどと納得はしたものの受け入れていくまでに時間はかかったのですが、「生き通しの生命」という言葉にこころが反応します。
止まってしまった時間が、こころの中で揺らぎました。その揺らぎを感じていると、止まっているように感じている時間は「精神的ないのち」とつながる流れで、実は亡き娘と一緒にいられる時間なのかもしれないと思えてきたのです。こころの中の時間は、止まってもいいし、進んでもいい、また戻ってもいい。亡き人と自由につながれる時間であり、「こころの中でともに生きることができる」と考えられるようになっていきました。
大切な人を失わなければ、「カイロス」というこころの中でつながれる時間に気がつくことができなかったと思います。二つの時間を持つことは、私のその後の人生にとって、とても意味のあることになりました。
「娘は最期に68歩歩いた」私もここで命を絶ちたいと思う足跡から、やがて明日を見い出す
私が前を向こう、生きようと思うきっかけになったのは、娘の最期の生きざまでした。私に「生きる力」を教えてくれたのは、娘が残した68 歩の足跡なのです。
事件直後、警察からは、傷の深さから娘は即死だと言われていました。しかし、その後の調べで信じたくない事実を知ります。娘は最後の力を振り絞り、出口に向かって廊下を、私の歩幅で「68歩」、距離にして39メートル歩いていたことがわかりました。
誰もが即死だと思うような傷を受けていました。即死であるならば苦しまずにすんだのかもしれない。残酷な現実を信じたくない私は「本当に優希なのですか?」と担当の刑事さんに質問しました。「とても歩けるような傷ではない……あれだけの傷を負ってどうしてここまでたどり着けたのか……」という答えが返ってきました。
「優希どうして歩いたの。歩かなかったら……温かいうちに会えたかもしれない」。私は必死で頑張って歩いた娘を責めてしまいました。自分のこころ残りや無念さしか考えられなかったのです。
優希が襲われた教室の場所から倒れた廊下の場所までの跡をたどります。よろめいて蛇行している真っ赤な足跡。私の歩幅で68歩。教職員のいる事務室まであとわずかというところで倒れていました。
たった一人で死の恐怖と闘っていたのね……。優希の名前は「優しく希望を持って」と願いを込めてつけた名前です。優希には名前の由来について何度も聞かせていました。きっと「パパママ、助けて! ゆき、頑張るよ。希望を持って頑張る……ゆき、あきらめない……」と思いながら、力の限り助けを求めて教職員室や家に帰れる玄関のある方向に歩いたのでしょう。親として何もしてあげることができない無力感に襲われました。今の私に何ができるのか、68歩を歩いた娘の気持ちに寄り添うことしかできないと思ったのです。
私たちは生きてきた経験値の中で、ケガの程度を見たらどれだけの痛みがあるのかを想像して、痛みに寄り添うことができます。そして、どんな手当てをしたらいいのか対応することもできます。私は殺人者に襲われて刺された経験はありません。娘の苦しみや痛み、恐怖を想像することもできないのです。いったいどれほどの思いだったのでしょうか。
少しでもいいから娘の思いを感じたくて、廊下を毎日歩こうと思いました。どんな思いで68歩を歩いたのだろう、この一歩を踏みしめたのだろうか。娘の苦しみを受け止めることができたとき、同じように私もここで自分のいのちを絶ちたい。そんなことを願いながら歩いていました。
最初は苦しんでいる娘の顔しか浮かんできませんでした。通い続けて1カ月くらいたったころでしょうか、不思議なことが起こりました。思いっきり笑顔で走ってくる娘が見えたのです。私は大きく手を広げます。そのとき初めて「よく頑張ったね」と、娘をほめてあげることができました。胸に飛び込んできた娘の小さな体を抱きしめました。
廊下に通い始めたころの私は、「ママはもう苦しくて生きていられない……」とこころの中で叫びました。そんな弱い母親に娘は、「ママ、いのちってこんなに素晴らしいものなんだよ。だから与えられたいのちを精一杯生きてね」といのちがけでメッセージを届けてくれているのです。かけがえのないいのちの尊さ、生きることの意味、生き抜くことの強さを教えてくれているのだと思いました。
「ママは本当に弱かったね、人には生きる力があるんだよね。本当に生きていくのって苦しいね。ママつらいよ……生きていることがつらいよ。でも、わかったよ。ママも優希と同じように68歩分、精一杯生きる。頑張って生きるからね。あなたたちが教えてくれたいろいろな思いをまた社会につないでいくからね。だから、神様どうかお願いします。69歩目を優希と手をつないで歩かせてください」と祈りました。
こうして、私は娘が最後まで希望を捨てずに歩き続け死力を尽くした68歩から、生きる力と生きる意味を見いだすことができたのです。
グリーフケアを学ぶ中、ヴィクトール・フランクル(ナチスの強制収容所に収容され生還した精神科医)の著書『夜と霧』を何度も読みました。この中に、精神的な存在として生死もわからない妻のほほえみを見たり、妻と語り合ったことが記されています。「……耐え難い苦痛に耐えることしかできない状況にあっても、人は、内に秘めた愛する人の眼差しや愛する人の面影を精神力で呼び戻すことにより、満たされることができるのだ」この場面に通じるものを感じました。
真っ暗だった私のこころにふっと光がともるような感覚でした。精神的ないのちがつながり、響き合えるのだと感じられたのです。こころの中の時間「カイロス」は、ここから自由に動き始めることになります。
▶前編『附属池田小学校児童殺傷事件「長机に横たわり動かない子どもの姿が見えました」かなしみとともに生きるということ』
『かなしみとともに生きる ~悲しみのグラデーション~』本郷由美子・著 1450円+税/主婦の友社
本郷由美子さんが経験した2つのあまりにも大きなグリーフ、「阪神淡路大震災」と「附属池田小学校児童殺傷事件」。こんにちのグリーフケア活動に至るまでの長い長い道のりと、そのまなざしで見つめたさまざまな悲しみのかたちを綴ります。いまかなしみを抱えて「今日と同じ明日がくるならもう明日はこないでほしい」と願う方、小さなかなしみを抱えているるけれど「それほど大変ではないから」と自分の心も覆っている方、そして身の回りにかなしみの種を感じる方。どうぞ本郷さんの心に触れてください。