平安貴族にもあった「配属ガチャ」。藤原為時の「越前赴任」とは?【大河ドラマ『光る君へ』#20】
*TOP画像/為時(岸谷五朗)の出世にかかわる文 大河ドラマ「光る君へ」20回(5月19日放送)より(C)NHK
紫式部を中心に平安の女たち、平安の男たちを描いた、大河ドラマ『光る君へ』の第20話が5月19日に放送されました。40代50代働く女性の目線で毎話、作品の内容や時代背景を深掘り解説していきます。
為時、10年ぶりに官職を得る。出世にみえる「希望」とは
為時(岸谷五朗)の苦労はついに報われ、従五位下に叙されました。
為時の躍進はこれにとどまりません。
まひろ(吉高由里子)は宋の国の人が越前に大勢訪れている状況を耳にし、「父上なら宋の国の言葉もお話になれますし ほかの誰よりも国にのために役に立ちまする」と19話で話していました。
まひろのこうした思いは現実のものとなり、為時は大国・越前守の職を得ます。
為時といと(信川清順)はこの出世には道長(柄本佑)のまひろへの“思い”が関係するのではないかと考えるシーンもありましたが、為時の長年の努力がなければ実現しないものです。
本作は学問に励むことや歴史を学ぶことの重要性が主軸にあります。
まひろは低い身分の者でも試験に受かれば官職を得られる科挙(宋の国)に憧れを抱き、さらには男であったなら学問に励んで内裏に上がりたいと考えています。また19話では政のあるべきかたちが書かれているからと、『新楽府』を書き写す姿が印象的でした。
為時が大国の国守に任命されたのも漢文に長らく励んできたからこそ。彼は漢文に長けていたために宋の国の人が訪れている絶妙なタイミングで出世が叶いました。
一方、詮子(吉田羊)に推されて越前の国守に任命された源国盛(森田甘路)は漢文が苦手であることから宋人の対応ができないと判断され、この職を解かれました。
いつの時代においても、口利きがあったとしても明暗を最終的に決めるのは本人の実力ということです。好機を逃さないためには勉学に励み、自身の状態を整えておく必要があります。
また、まひろが抱く父には越前の国守として国のために役立ってほしいという思いは、本作を理解する上で重要なポイントです。
まひろの関心は我が家の発展だけでなく、各人の才を誰かのために活かせるかにあります。
まひろは自分が生まれてきた意味を探していますが、それはつまり世や人のためにできることの模索です。自分や家のためだけでなく、世のため人のためにはたらくことでこそ、自分の存在意義を実感できるということでしょう。
兼家(段田安則)らの政は自分や家というプライベートな領域に限定されていましたが、人の上に立つ者が視野を広げることで世がどのように変わりだすのだろうか。次週以降、為時が越前守としてどのような活躍を見せるのか期待できますね。
【史実解説】為時のおどろくべき出世の背景とは?
紫式部の父・為時は無官の日々が長く続きます。漢学者として高く評価されていたものの、貴族としての出世には恵まれませんでした。
官職がない期間は詩会や歌会への出席で受け取れる禄が一家の主な収入源であったと考えられています。
長徳2年正月25日の除目で、為時は官職を10年ぶりに得ます。当初は淡路島国に任じられたものの、人気のある越前に3日後には変更になりました。
この背景には、道長や一条天皇が関わるという説が有力です。為時は淡路島への赴任に納得できず、一条天皇に「苦学の寒夜は紅涙が袖をうるおし、除目の翌日は蒼天が目にある」と書いた文を送りました。この文に一条天皇は感動し、越前に替任したといわれています。
史実においても、為時の越前への赴任は漢文の才を期待するものでした。この地には外交施設があり、大陸から渡ってきた中国人も住んでいました。漢文に通じる為時であれば、彼らの対応もできると判断されたのでしょう。学問に心を注いできた為時の努力がようやく報われたのです。
平安時代もあったよ「配属ガチャ」。紫式部は越前において都を懐かしむ
現代においても都会で育った人にとって地方への配属はつらいことのようです。若い世代の中には配属先を「配属ガチャ」と揶揄する人もいます。
誰もがうらやむ大手企業への入社が決まったとしても、配属先が思うような場所でなかった場合は、「都会で暮らしたい」という思いを抱えながら鬱々とした日々になることも…。
都会人が都を好むのは平安時代も同じで、ザ・都会っ子の紫式部もそのひとりでした。彼女は越前へ向かう途中、琵琶湖で舟に乗るなど貴重な体験の機会にも恵まれます。しかし、道中も心は都にあり、時々ぼやいていたよう。
紫式部が越前に滞在中に詠んだ歌は見つかっていません。その背景として、外出の機会が少なかったからとも考えられています。福井県は雪が降りますし、冬の気候が身に堪える地域性も関係しているのかもしれません。
余談ですが、疫病が流行っていた当時、武蔵守に任命されたある国司は「武蔵のような田舎はいやだ」と言って、現地まで行かずに都で生活していたそうです。国司にはその土地をよりよくするために率先して働く役割があるはずなのに、そんなことを言われては困りものですね。
ちなみに、為時は越前で勤めをしっかりと果たしています。生真面目で、努力家な彼らしいですよね。
▶▶つづきの【後編】では、平安時代は今の大学にあたる機関の学費が無料だった⁉…についてお伝えします。__▶▶▶▶▶
参考資料
倉本一宏 (監)『大河ドラマ 光る君へ 紫式部とその時代』 宝島社 2023年
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