平安時代、宮中で働く女房には「バツイチ」や「シングルマザー」も。メンタル最強の「クセ強な女」だらけで、出社拒否も容認!?
姫君にお仕えする女房は「ワケアリ女」だらけ。そりゃあ、愚痴りたくもなるわ…。
女房として皇后や高い身分の姫に仕える女性たちのほとんどが中下級貴族の娘であり、育ちのよいお嬢様たちです。自身も乳母や女房から手厚く育てられ、教養もあり芸達者。
とはいえ、女房として外に働きに出るからには“なんらかの事情を抱えているケース”が多いようです。当時、清少納言のように宮仕えに憧れを抱く女性は稀であり、紫式部のように“男性に顔を晒して働くなんてみっともないわ”と考える女性がほとんどでした。また、親たちの中にも“我が娘には女房勤めをさせたくない”と強く思う人も多くいました。例えば、『更級日記』の作者・菅原孝標女の父である菅原孝標も娘の宮仕えに反対したそうです。
こうした時代思潮の中で、女房として働く女性の中には父や夫を亡くして自力で身を立てていかなければならない女性、実家が没落して働く必要がある女性など、何かしらの事情を抱えているケースが多くありました。ただし、上流貴族にとって優れた女房を雇うことは権威の強さを示すことでもあったため、後ろ盾がしっかりあり、実家が安定している女性も、才能や人柄が評価されて女房に選ばれることもありました。
宮仕えはメンタル強くないとムリかも。女房たちの話題は同僚や共通の知人!?
平安時代は社会においても宮中においても序列がありました。女房にも序列があり、女房の序列は家柄やキャリアの長さで決まります。女房の序列は絶対的なもので、牛車に乗り込む順番も序列に基づいていました。
紫式部は同僚について親しい女房と愚痴を言い合うことがありましたが、女房たちはお互いについて悪口も含めてあれこれ話していたといわれています。
また、女房の中には勤め先を失い、落ちぶれて、乞食になった人もいると伝わっています。定子から信頼され、伊周など高い地位にある男たちとも親しかった清少納言も、定子が亡くなってからは宮中に居場所がなくなったそうです。また、清少納言の晩年は分かっていませんが、華やかなものではなかったと憶測する学者が多いです。
「アラサー」で宮仕えをはじめた女たち。「出仕拒否」も「自由奔放な恋」もアリ!?
平均寿命は40歳といわれている平安時代、紫式部、清少納言、和泉式部といった女性作家はアラサーで宮仕えをし、集団生活をしながら執筆していました。
紫式部は35歳前後で彰子のもとに仕えたといわれています。紫式部は28歳頃に父親ほどの年齢の宣孝と結婚しているので、当時としては遅い結婚でした。彼女が31歳前後のときに宣孝は亡くなり、『源氏物語』の執筆をはじめます。さまざまな諸説がありますが、物語作家としての評判を聞いた道長から彰子の女房にならないかと誘いがあったそうです。このとき、紫式部は父・為時には十分な収入がなく、娘もおり、家計は大変だったと思われます。紫式部は宮中での暮らしに慣れるまでに時間がかかり、同僚とうまくいかずに実家に退出したこともありました。同僚から文が届いても、そっけない文を返すにすぎなかったといわれています。
清少納言が宮中に入ったのは28歳のときといわれています。清少納言は結婚し、子どももいましたが、夫とは離婚しています。また、両親に先立たれ、女一人で身を立てていかなければならない状況でした。なお、清少納言の元夫も宮中で働いており、職場で顔を合わせれば親しくしていたようです。清少納言は定子とも強い絆で結ばれており、定子サロンでも人気がありましたが、思いもよらぬウワサを立てられ、里に下がった時期もありました。このとき、定子から参上せよと連絡が入っても、スルーした時期があったよう…。
また、和泉式部は冷泉天皇の童女として幼い頃から宮中で働いていました。彼女は“恋多き女”として知られています。和泉守・橘道貞と婚姻関係にある中で、冷泉天皇の子・為尊親王と不倫します。宮中では大騒ぎとなり、和泉式部は親から勘当され、道貞とは離婚をよぎなくされます。為尊親王が病で亡くなると、為尊親王の弟・敦道親王と恋に落ちます。しかし、彼には妻がいたため、大きな騒ぎになりました。彼女が愛する男を失い、落ち込む姿を見ていた道長は経済的支援をしていたそう。そして、和泉式部は30歳をすぎてから彰子に仕え始めます。
紫式部は未亡人の子持ち女、清少納言はバツイチ子持ち女、和泉式部は道長から「浮かれ女」と呼ばれる子持ち女です。彼女たちは歌人や学者の娘で親から才能を受け継いでいるものの、波乱万丈な人生を送っていますね。
参考資料
河合敦『平安の文豪』 ポプラ社 2023年
竹内正彦『図解でスッと頭に入る紫式部と源氏物語』昭文社 2023年
藤井勝彦 『図解 ダーティヒロイン』新紀元社 2013年
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