「発達障害者らしく生きたらいいんだ」そう思えるまでに10年。特性に合った仕事を見つけて今は幸せ
どの職場も長続きせず、職を転々
石橋さんは社会人になると、どの会社でも長続きせず、3年くらい勤めては辞め、転職を繰り返しました。
「学生の時は忘れ物が多いとか先生から注意されるとかいうことはなく、私自身もごまかしてなんとかやってきた気がします。課題を出さないなど内申点に影響することはありましたが、勉強は並くらいの成績でしたし、大学にも進学しました。
ただ、達障害の人は社会に出て社会生活をしようと思うと苦労します。
大学を卒業した時は、リーマンショックの真っ只中。100社エントリーシートを出しても1社くらいしか面接してもらえませんでした。結局、自分でハウスクリーニングの会社を始めたのですが、ADHDなのでうまくいくはずありません。お客さんもつかず、借金だけが残ってやめてしまいました。」
当時は派遣が盛んだったので、石橋さんは派遣で固定電話の営業の仕事に就きました。
「新規開拓の仕事です。とにかく電話して、アポイントを取って会いに行き、契約を取る仕事でした。タウンページを見ながら上から順番に電話するのですが、ADHDの失敗にめげない特性もあってか、断られてもダメージを受けません。普通の人なら50件、100件でメンタルをやられてしまうところですが、次のことしか見えないので、はい次、はい次、はい次と電話できます。150件でも200件と平気で電話できるんです。数打ちゃ当たるので成績も上がり、正社員になりました。」
ところが、正社員になると、電話以外にもいろんな仕事をこなすことが求められました。
「電話もしなあかんし、見積もりも作らなあかんし、契約を取った後の進捗も管理しなあかん。一気に仕事ができなくなりました。契約は取れるのですが、電話の開通まで行くことができず、結果が出せないのです。
解雇されたわけではありませんが、自主退職を促すような空気になり、耐えられずに辞めてしまいました。2社くらい同じパターンで退職し、3社目の途中くらいの時に、『このままではいけない』と思って病院に行きました。」
診断されたが、「治療法はない」
石橋さんのお母さんは小学校の教員をしていたのですが、発達障害がテーマの研修会に出た時に、「これはうちの次男のことだ!」「あんた、これちゃうか?」、と本を買ってきてくれました。
「私生活でも忘れ物がとても多くて、約束をしていたのに忘れてしまうことも度々ありました。忘れ物はうっかりというレベルではなく、あらゆるものを忘れてしまいます。持っていくのを忘れるし、持っていくと持って帰るのを忘れてしまう。定期や財布、鍵、なんならカバンを置いてきたこともあります。衝動性や多動、注意欠陥もありました。」
石橋さんは自閉症の自助グループの人に教えてもらった病院を受診し、発達障害だと診断されました。
「医師に、『治療法はない』と言われて、『えー、そうなんや、これは自分で考えなしょうがないな』と思いました。母からもらった本の巻末に、アメリカには発達障害者の自助グループがあると書いてあったので、これはええやんと思い、ある発達障害の女性と自助グループを作りました。
治療法はないのですが、ADHDの薬が処方されました。それを飲むと8時間くらい頭が冴えるので、頭が冴えているうちに自己訓練をしてくださいと言われました。自己訓練は、自分がどんなミスをするとか、どんな時にミスしやすいのかということを自分で把握して、そうならないように、もしくはミスしてもひどいことにならないように準備をすることです。」
石橋さんは、その方法は正しかったと言います。
「当時も今も治療法がないのは変わりません。あの先生は、変に治せますとか頑張ろうよとか言わず潔かった。おかげで私は無駄にお金を使ったり治療法を探したりせずに、自助グループに入ることができました。その後、自分の自助グループを立ち上げました。」
自分の特性に合う会社に就職
診断がついてから2年後、石橋さんは、現在勤めている会社に就職しました。その会社は石橋さんの特性に合っていたそうです。
「職種と社風が私の発達特性とマッチしました。小さな5人くらいの建築会社なので、タイムカードがありません。いい意味でいいかげんです。遅刻しても文句を言われないし、早退しても途中で抜けても現場対応さえしていたら何も言われません。
建築の現場は40種類くらいの業種があるのですが、それぞれ完全に仕事が分かれています。大工さんは大工さん、左官屋さんは左官屋さん、僕は監督なので監督の仕事だけしていたらいいのです。
同じ建築でも、私には職人は無理なんです。でも、コミュニケーションが非常に得意なので、お客さんの要望を聞いて、それを職人さんに伝えてやってもらっています。
幼い頃から、よく喋る子、口から生まれた子と言われていて、それが自分の発達特性です。
建築には全く興味がなかったのですが、たまたま合いました。」
仕事は順調ですが、相変わらず忘れ物が多い石橋さん。ある工夫をして忘れないようにしています。
「定型者のように、決まった場所にものを置いておくというような方法は全く通用しません。
そのため、1週間同じズボンを履いて、同じ上着を着ます。絶対に服を変えず、持ち物は全部身につけています。カバンも持たず、全て持ち物は身につけています。そうしたらいちいち物を出さなくていいのです。鍵もなくすという前提で、5個も10個も作ります。携帯電話はポケットに入れないでホルダーで腰につけています。
日常生活を工夫しないといけないのでおしゃれはできないのですが、何かを手に入れようと思えば何かを手放さなければなりません。
物を落とすという前提、失くすという前提で、自分の特性に合わせた生活に組み立て直す、要は生き方を変えるということです。」
他の発達障害の人の話から「工夫のしかた」を見つける
このように石橋さんが障害を受容できたのは、ご自身が作った自助グループで、他の発達障害の人の話を聞いたからです。
「自助グループでいろんな人の話を聞き、他の発達障害の人も私と同じような失敗をしていていることに気づき、私の考えを改めようと思いました。
発達障害の人は発達障害者らしく生きなければならない。
どこかで定型者みたいになりたいとか発達障害を治したいとか健常者のような生き方をしたいとか思っていたのですが、そんな自分を捨て、定型者として生きていくことを諦める覚悟をしました。『アホはアホなまま生きて行ったらぁ』と。
30歳くらいの時になんとなく気づいてはいたのですが、はっきりと自覚したのは35~36歳の時のことでした。
自助グループで悩んでいる当事者の人にアドバイスする時は、『あきらめたら手に入るよ』と言っています。彼女が欲しい、定型者になりたい、ミスしないようになりたい・・・それを諦めた時にできるようになると。
発達障害を受け入れて、発達障害者なりの社会生活を送ると、『あの人はでこぼこがあるけど頑張っているね』、と評価されるようになりますし、何より自分が生きやすくなります。
ただ、私も障害を受容するのに10年かかりました。自分は年収500万もらえるはずだと思い込んでいる人が、年収300万で満足するには時間がかかるんです。500万の時には毎日頑張って、心身をすり減らして生きてきたけど、『あれ?なんや、300万で生活できるやん。お金とかいらんかったんや』と気づいた時に、初めて障害から解放されるんです。」
>>>専門医・岡田俊先生による解説
「ADHDの人が感じるの日常生活の困難。子どもと大人で、本人の対応に変化は生まれるのか?」
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