ケンカしている暇なんてない。家族・社員・酒蔵を守るために、「手放したもの」と「新たに得たもの」
「がんばるぞ!」家族4人で誓い合った日
役場で一晩を過ごし迎えた、震災翌日。ここからどんな形で生活をしていくか、早速考えなくてはいけません。「覚悟したというのか、意外にも心は落ち着いていたと思います。まずは自宅に行って安全に過ごせるかどうか自宅の状況を確認することから始めました」というしほりさん。
「めちゃくちゃな家の中で、唯一、和室は居住空間としてどうにか成り立ちそうでした」。
しほりさんたちは、この一室で生活しながら日常を取り戻すことを決意します。
「家に戻ってまず取り掛かったのは、腹ごしらえ。震災後は食事を取れていませんでしたから。子どもたちをこたつに座らせて、元日のおせちやお雑煮の残りを紙皿によそって食べました。
家の中を見渡せば、ひどい状況が広がっているのですが、これはもう私たちの現実。子どもがいるからこそ余計に、心を健やかに保つことが大切だと思いました。腹ごしらえを済ませたら『さぁがんばるぞ!』と気合いを入れて、家族全員でエイエイオーと声を出しました」。
そんな心と裏腹に、地震の不安と隣り合わせの状態は続きます。
「余震が断続的にあったので、いつでも避難できるように、地震後3週間以上は、寝巻ではなく普段着で寝起きしていました。
子どもたちの学校再開までも時間がかかり、家で過ごす時間がとても長かったのですが、その間はテレビのニュースはなるべくつけず、不安を煽らないようにして過ごしました」。
一方で、状況に適応していく人間のたくましさも感じたといいます。
「地震直後は断水がつづき体を拭くことしかできませんでした。しばらくして給水車の支援が始まり、生活に使える余裕が出てきました。やっと頭を洗える!と、やかんや大きな鍋を集めてお湯を沸かし寒さに震えながら行水しました。震災から12日後の1月13日のことでしたね。
子どもたちには大きなプラスチックの衣装ケースにお湯を張ってお風呂を準備しました。おもちゃみたいなお風呂に身をよじらせて入る子どもたちの笑顔が印象的でした。
当たり前に思っていた生活のひとつひとつが、とても幸せなことだったと気づくと同時に、じゃあ今の状況でどう子どもたちと楽しんで暮らすことができるのかと、自分の中での知恵くらべが始まっていました」。
“時間”と“好き”を味方に。心の傷を自ら癒し、立ち直った我が子
非常事態下の新しい生活に少しずつ慣れてきた頃、子どもの心に蓄積された傷も見えてきました。
「地震から1週間ほど経った頃でしょうか。長男が、1人で過ごすことへの恐怖を訴えるように。
震度5レベルの余震が多かったので、本震の恐怖が癒えるどころか、だんだんと不安が募っていったのでしょうね。トイレ、暗闇、いろいろな場面で1人になるのを怖がって、家から出るのを嫌がるようになってしまったんです。ひどい落ち込みや体調の悪化はなかったものの、息子の心は大きな影響を受けていることがうかがえました。
そんな状態でしたから、学校再開後もしばらくは車で送迎していました。道もがたがたでしたしね。このあたりの倒壊家屋は6月くらいまで手つかずの状態で、通学路の周りに広がるそういった風景も、幼い心の不安を煽る要素になっていたのかなと思います」。
母として寄り添ってあげていたい気持ちがありつつも、老舗酒蔵の若女将でもあるしほりさん。酒蔵の復旧に向けた仕事は、発災後から待ったなしでした。
「我が家は会社と同じ敷地内で暮らしています。仕事中は子どもたちだけでお留守番をしてもらうことになりますが、すぐ傍に大人がいて子どもが安心しやすい環境だったのは助かりました。
でもそれ以上に、長男のがんばりがありましたね。仕事に向かう私に『がんばってね!』『お酒は大丈夫?』『いってらっしゃい!』などと声をかけてくれるんです。それでも、私の仕事が終わるなり抱きついてきていました。
大変な状況下でも、彼なりに心細い気持ちを一生懸命コントロールしながら、私たちの応援団でいてくれたことがとても嬉しかったです」。
そんな息子さんも、数カ月かけて、徐々に本来の活発さを取り戻したといいます。
「春休みになるころ、ようやく息子たちだけで友だちの家に遊びに行けるようになりました。地震で地面から突き出してしまったマンホールを怖がっていたのも、いつのまにか遊び道具に変化したり。子どもたちなりに現実を受け入れていったのだと思います。
長男の大好きなミニバスケットボールクラブが再開したのも大きかったです。風景が変わっても、好きなものは変わりませんから。大きなエネルギーをもらったようです。いつも使っていた体育館に立ち入れなくなったり練習する機会がなくなったりなどありましたが、仲間たちと一緒に夢中になれる時間がなによりの癒やしになったと思います」。
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