紫式部、藤原道長、清少納言の晩年とは?高く評価された女房も内裏を離れれば“一人の民”扱いで記録もされない時代だった
紫式部の晩年
「光る君へ」のヒロインであり、紫式部をモデルとしたまひろ(吉高由里子)は、大切な人たちの足跡をたどる旅に出るなど充実した晩年が描かれていました。しかし、実際の紫式部がどのような晩年を送ったのかはっきりしたことは分かっていません。
また、本作ではまひろと道長(柄本佑)は赤い糸で最後まで結ばれていましたが、史実では紫式部と道長の関係はしだいにもつれていったといわれています。道長と娘・彰子はすれ違うことが多く、彰子のそばについていた紫式部は道長から嫌悪されるようになったそうです。
紫式部の消息が最後に綴られた記録は藤原実資の「小右記」です。実資は「藤原為時の娘が対応した」と1013年に綴っています。
紫式部は内裏を退出した後、越後の守をつとめていた父・為時のもとをたよったのではないかと一般的に考えられています。また、かつての同僚と歌を詠むなど充実した日々を過ごしていたともいわれています。
内裏を去ったあとの紫式部についての詳細は分からないことが多いためさまざまな憶測が飛び交っています。内裏を離れて一年ほどで亡くなった、後一条天皇の即位後に再び女房として仕えたと考える識者もいます。
紫式部は1010年頃に亡くなったと一般的にいわれていますが、没年についても憶測の域を出ません。紫式部の墓は紫野の雲林院の近くにあると伝わっています。
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