20万からの起業で「年商7億」。女社長の仕事の流儀とは?【ブラウンシュガーファースト代表取締役 荻野みどりさん前編】
常識や世間体を気にせず、自分らしく、自由に、自立した女性の生き方を応援する「OTONA SALONE」。まさにそんな生き方をしている女性にせまるインタビューが今回からスタートします。
第1回は、ブラウンシュガーファースト代表取締役の荻野みどりさん。
大ブームを巻き起こしたココナッツオイルの輸入販売をはじめ、「子供たちに安心して食べさせられるおやつの選択肢を広げたい」その思いから、おいしくて安心な食材を提供するブラウンシュガーファーストを立ち上げた女性起業家です。
荻野さんがブラウンシュガーファーストをどのような経緯で立ち上げてきたのか、仕事の流儀などについてお伺いしました。
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Profile
荻野みどり ブラウンシュガーファースト代表取締役
1982年、福岡県久留米市生まれ。2011年に第一子を出産。
その4ヶ月後に「ブラウンシュガーファースト」を立ち上げる。
2013年には「coco cookies」が大手コンビにチェーンで発売開始。
同年に同名で法人登記し「有機エキストラバージンココナッツオイル」の販売を開始。
販売直後からメディアでも大きく取り上げられ大ブレイク。
ココナッツオイルブームの火付け役として有名に。
著書に『ココナッツオイル生活をはじめよう』(講談社)、
『こじらせママ子育てしながらココナッツオイルで年商7億円』(集英社)などがある。
そのキャリアは「家出」から始まった
——ブラウンシュガーファーストの始まりであるお菓子の販売から、ココナッツオイルの輸入まで最初は1人でこなしていたそうですが、昔から経営や販売に興味があったのですか?
「いいえ、全然。私の最終学歴で言うと大学中退になりますね。短大に行って1年で辞め、その後会社員をしつつやっぱり一般教養を身につけたいと放送大学へ。それも1年で辞めて、社会学を学びたくて24歳のときに駒沢大学へ入学してそれも……」
——たった1年で?
「その通り(笑)。自分の中でもう充分、満足したと思ったら次へ行く性格なんです。より好奇心を満たしてくれる場所を求めて次へ次へと。
なので、学歴もそうですが職歴もすごいですよ(笑)。アパレル関係やウエイトレス、外資系企業でのフランス人の秘書もやったし、パソコンの回線を売ったり、ヨガブランドの店舗立ち上げの管理もしましたね」
——興味があるとすぐ次へという性格はお子さんの時からですか?
「そうなんです。でも私が生まれたのは福岡県の久留米市なんですが女はキャリアより愛嬌というのが当たり前に浸透している文化で。女の幸せは早く結婚して子供を産むこと。25歳を過ぎて独身なんて遅過ぎる!! そう信じて疑わないんです。
男女差別、時代錯誤だと思われるかもしれませんが、両親は心から娘の幸せを願って言ってることなんですよね。だから私みたいに興味が湧いたら動き出さないと気が済まない性格は親にとってなかなか理解が出来なかったと思います。
福岡弁で『のぼせるな、にやがるな』という『調子に乗るな、いい気になるな』という意味の言葉があるのですが、いつも「のぼせんと!(調子にのらんと!)」と言われてきました」
——じゃぁ、上京もご両親の反対を押し切って……?
「押切ったんじゃありません、家出です(笑)。ボストンバッグ1個だけもって東京に遊びにいくと言って。そのまま帰りませんでした。でも不思議なもので、親の記憶は書き換えらえるんですよね。今じゃ「応援してた」って言うんですよ(笑)」
「おいしい」と「安全」が両立したお菓子を
——アパレル、ITなどいろいろな職業を転々としながら、いつブラウンシュガーファーストの起業へと向うのでしょう?
「2011年に子供を出産したのですが、生後4ヶ月の娘に湿疹が出たり便秘になったりするようになって。母乳で育てていたので原因は私にしかないと思いました。そこで改めて食の重要さに気がついたんです。
とくに子供達が喜ぶお菓子は安心して食べさせられるレパートリーが少なかった。美味しいけどあまり食べさせたくない材料が入っていたり、安心な食材だけどおいしくなかったり……。
そこで私が子供達に安心して食べさせられるお菓子のレパートリーを増やしたい! と思い立ったのが始まりです」
——最初はココナッツオイルじゃなかったんですね。
「始まりはウーピーパイというお菓子を売ることにしました。どら焼きのような生地にクリームを挟んだアメリカの家庭で作られているお菓子です。
ちょうど当時は海外ドラマの『SEX AND THE CITY』が流行っていて、その中にも登場していたから面白い手みやげにも選んでもらえるんじゃないかと思って。
ただ、アメリカのレシピで再現すると美味しくなかったり、コストを削減しようとすると材料を粗末にしなきゃいけず葛藤しました。そこで自分が「子供に食べさせたいか?」を基準に食材を厳選し、商品を企画しました。
レシピは福岡でお菓子教室をしている母にお願いして、制作は母に紹介してもらった社会福祉法人のグループにお願いして作ってもらったんです」
軍資金は20万円。これが尽きたら終わり!
——お菓子屋さんなのに、荻野さんは作ってないんですね(笑)
「そうなんです、私はこういうものを作りたいってでディレクションしただけ(笑)。でもその商品が売れるかは私の手腕にかかっています。
軍資金は20万円。新たに口座を開設して、この20万円がなくなったらGAME OVERにしようと思って始めたんです。お菓子の販売はwebショップからスタートさせて、冬場は娘を抱っこしながらファーマーズマーケットで手売りしていました。
そこそこ売れたのですが、肝心の口座残高は減りもしないけど増えもしない。これはどうにかしないととモヤモヤしてる一方で、ウーピーパイに使っているバタークリームに疑問を感じ始めました」
−−というと? 厳選した食材で、美味しくて可愛い商品だったんですよね?
「美味しいからこそ2個、3個食べたくなっちゃう。でもこのたっぷりのバタークリームをそんなに子供が食べていいのか? よくないでしょ! って自問自答して。そのとき自分がこの商品を健康によくないと気付いたんです。
さらに世の中はバター不足の時期。私みたいな小さな会社には問屋さんがバターを卸してくれなくなって。コンパウンド品と言ってショートニングが混ざったものが届いたり…。そこでバターに変わるものはないのかと探し始めたんです」
——それが「美味しくて、安定供給できて、かつ子供たちに安心して食べさせられるもの」ですね!
「そう! それがココナッツオイルだったんです。日本では菜種油やごま油をお菓子作りに使うところはあったんですが、あのバター特有のリッチなコクが出せなくて。
探していたらアメリカのヘルスコンシャスたちがお菓子作りのときにココナッツオイルを使っていることを知りました。そこで個人的に色んなメーカーのものを輸入してお菓子を焼いてみたらどれも驚くほど美味しくて!
だからうちの商品すべてにココナッツオイルを使えないかと思いました。でもそのうちにこれはお菓子を1個1個手売りするのもいいけれど、それよりも日本中のお母さんたちのお砂糖や油の質を変えるということが実はすごく重要なんじゃないかなと思ったんです。
ココナッツオイルそのものが食卓に定着すればもっと子供達の食の安全の向上に繋がるんじゃないかと。
結果、お菓子屋さんが原料屋さんへと変わったわけですが、目的は商売のほかに子供達が食べるおやつの選択誌を広げることなので、その間の手段はなんだっていいんです」
アポも取れていないのにフィリピンへ!
——ココナッツオイルの情報はどのようにして調べたのですか?
「それはもうネットにかじりつき。当時ココナッツオイルに関する既述は日本語のものがほとんどなかったので、英語のサイトをひたすら見てました。
輸入したココナッツオイルのラベルを見たら、それらがフィリピンで作られていることがわかって。アメリカから輸入するのはどう考えても高いので、それなら行ってしまおう! とフィリピン行きの航空券を手配したんです」
——え? フィリピンになんのコネクションもないままに??
「そうそう(笑)。ネットで現地の業者を調べてメールを送って。ココナッツオイルの製法から特徴、注意点など何も知らなかったので教えて欲しいとお願いしたんです。
でも一向に返事はナシ。在日のフィリピン大使館にコンタクトを取っても同じくレスはなく、気付いたら出発日の前日になっちゃって。なので現地の業者に「明日行きます!」とメールを一本打ってマニラに行っちゃいました。
もちろん全部1人で。飛行機とタクシーを乗り継いで現地の工場にに到着したら『本当に来た!!』って驚かれましたよ(笑)」
——それは驚くでしょうね(笑)。そこで納得の行く工場と巡り会い、いよいよ『有機エキストラバージンココナッツオイル』が誕生するんですね!
「商品開発や輸入、販売などすべてにおいて素人だったので、貿易会社の方のお知恵を拝借しながらいくつもの工場を視察して。やっと納得いくものができたのが2013年です。
そこで私は賭けに出ることにしました。その年のアジア最大級の食品・飲料専門展示会であるFOODEXに出展することに決めたんです。出展には100万円が必要だったので、それは父に頼んで借りることにしました」
ターニングポイントは「知ってもらったこと」
——上京も反対だったお父様はすぐに了承してくれたのでしょうか?
「事業計画書を書け、と。なので『成城石井、伊勢丹とお取り引き開始』など書き出してみると自分のやろうとしてることがとても大きなことだと再認識して。
そこで目標が明確になったのもよかったと思います。父からは寝言は寝てから言えと言われましたけど(笑)」
——その事業計画書に自信はあったんですか?
「私が売ろうとしているココナッツオイルは絶対にいいものだから、その良ささえわかってもらえば確実にヒットすると思っていましたね。FOODEXでは前にアパレルで働いてた経験がとても役立って。
アパレルでの展示会の作り込み方を知っていたので、テーマを決めて雰囲気を作り、遠くからでもひとめでわかるアイキャッチを作って勧誘する。そして近くに来てもらったら試食してもらうという導線を考えつつブースを作りました。
当時、まだ食品の展示会といえば長テーブルに商品を並べただけというシンプルなブースばかりだったので、うちのブースはとても目立って。たくさんの方にココナッツオイルを試食してもらうことができました。
成城石井さんや伊勢丹さん、松坂屋さんなど今も繋がるお取引先の半分はそこで繋がったんです」
——事業計画書の通りに! そこから事業は急成長していくわけですね。
「その後はひたすら営業とメディアへの露出の2本を同時進行で行いました。
誰も知らないココナッツオイルを売り込むのは簡単じゃなかったし、客単価300円程度の油コーナーに1,700円の商品を置くことをしぶる方はたくさんいましたが、そこも『絶対いいものなので!』の一点張りで。
同時にココナッツオイルを使ったランチ会などイベントを開いたりすることで露出を増やしていったところ、ブームになったんです」
自分の最低限を知っていれば怖くない
——お話を聞いているとものすごく順調に来ているように思いますが、挫折しかけたことなどないのでしょうか?
「無理かもなんて考える時間もありませんでしたね。企業したときはどうせ失敗しても100万円だ! とガムシャラに走ってきました。
事業が急拡大し、銀行からの借入額もどんどん大きくなっていったときはさすがに怖くなったし、現状の方が扱う物流も多いので不安になることもあります。でも私は自分の最低限を知ってるので、あまり失敗も怖くないですね」
——失敗したら培って来たものがゼロになっちゃう怖さはありませんか?
「私は上京したの頃、アパレル時代に作ったカードローンが山ほどあってバイトを掛け持ちしながらシェアハウスに住んでたんです。でも全然惨めじゃなかったし、楽しく過ごしてた。だから今でも、自分1人なら月10万円ちょっとあれば東京で心豊かに暮らせると思ってます。
自分が心豊かに過ごせる最低限のレベルを知ってるからその分腹が据わってるんです。もし失敗して身ぐるみなくなってもバイトで食べていける自信がありますから。
私の心地いい生活とは誰かに追いかけられたり、急かされたりせず、自分のやりたいことをやる時間が取れること。本を読んだり、観葉植物を育てたり、そして最低限の物しかない生活をすることです。
お金があってもなくても自分が心地いいと思える場所を意識的にイメージするようにしているので、何が合ってもそこに立ち返れますよ」
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企業するまでに経験した色んな職業の経験が色んなところで行きていると話してくれた荻野さん。「向いていないと思ったらすぐに辞め続けてよかった」と語った荻野さん仕事の流儀にあるのは「思い立ったら即行動」があると感じました。
物のない生活をComfortだという荻野さんは今でも自分のものはスーツケース2、3個しかないのだとか。いつでもどこでも暮らしていけるそのスタイルは目指す働き方へと繋がったそうです。
後半は荻野さんの「働き方改革」についてお伺いします。
後編はコチラ