「夜が明けたら友だちはみんなこの世にいなかった」1957年諫早豪雨を経験した少年が医師となり先進的地域医療で抗加齢医学功労賞に輝くまで

北海道帯広市の「満岡内科循環器クリニック」で長く地域医療に携わってきた満岡孝雄先生(77歳)。「地元にこんな病院があったらいいな……」と思い描く同院は、医師である満岡先生を真ん中にしたスタッフの連携にも定評があります。「なんでこんなに皆さんイイ感じなんですか?」とお話を伺うと、やはり浮かび上がるのは先生の前向きなお人柄。

 

そんな満岡先生が2026年6月、第26回日本抗加齢医学会総会にて抗加齢医学功労賞を受賞しました。同賞の過去13人の受賞者はすべて著名な大学教授で、開業医の受賞は初のケースです。

 

長崎に生まれ育ち、北海道で学び、再び長崎の地で不整脈治療をスタート、海外勤務と留学を経験するダイナミックな30代を経て、50代以降を「地域医療と予防医学」に捧げた満岡先生に、今日から見直せる健康習慣のヒント、そして医師を志した意外な原点までを聞きました。

 

長崎・諫早生まれの少年はなぜ北海道で心臓外科医を志したのか?そのルーツは「雑誌の表紙」

クリニック公式サイトより

「先生はなぜ医師を志したのですか?」と伺ったところ、しばらく考えてから、「兄が医学の道に進んだことも後押しになったかもしれません」とゆっくり振り返り始めた満岡先生。

 

お祖母さまは長崎県諫早市の出身で、明治維新の制度変更後に地域で初めて「産婆さん」から看護師資格を取得した有資格助産師でした。諫早市の初代助産師会長も務め、長年にわたり地域の子どもの出産を助けるその姿を見て育ち、お兄さまは医師を志しました。もうひとつ、病弱なお母さまへの思いもあったといいます。

 

「僕が小学校の1、2年生頃には、母は寝たり起きたりの生活で、そのうちに寝たきりになりました。家族みんなで母親を介護する中で、自然に医者になるという雰囲気があったかもしれません」

 

そんな満岡先生が地元の小・中・高校を経て進学先に選んだのは、一般的な選択肢である九州、あるいは京都、大阪、東京でもなく、いちばん遠い北海道大学(以下北大)の医学部でした。

 

「南国育ちの人間が抱く北国への憧れですね。あるとき受験雑誌『蛍雪時代』の表紙に、雪景色のポプラ並木を馬に乗って闊歩する北大の女子学生の写真が掲載されたのです。それを見て、かっこいいなあ、僕も北海道で馬に乗りたいなあと思って。当時は内村鑑三先生のお弟子さんの諏訪望先生が教授でしたから、精神科志望でした。札幌農学校から続く北大のこうしたキリスト教的な空気感も、長崎育ちには親しみがありました」

 

しかし北大入学後に念願かなって入部した乗馬部では、新入生オリエンテーションで思わぬ体の変化に見舞われました。

 

「1週間馬に乗ったら、まともに歩けなくなったんです。馬って内股に相当な力を入れて乗らなきゃならないので、下半身がこわばってガニ股になってしまって。また、部員は週2回は馬小屋での寝泊まりが必要ですから、臨床実習が始まる進級後は両立が難しそうと考えて、乗馬部はあきらめました。その後、北大に5つほどあったスキー部の一つ、ワンダーフォーゲル部に入部しました」

 

当時、北大で一番有名だったのは山岳スキーを専門とする山スキー部。ヒマラヤ遠征を遂げるなど世界的にも活躍をしていましたが、ワンゲル部は楽しく滑ることができる春山のゲレンデが活動の中心でした。こうして学生生活を謳歌する満岡先生は、初志通り精神科医を志し、学部2、3年目には土日を利用して精神科病院で実習を重ねます。しかし、次第に自分の考えていた精神医学との乖離に気づきます。

 

「精神医学はとても面白いのですが、精神医療の現場は患者さんたちと向き合う部分以外にも時間を取られる。深く知るにつれて、ちょっとこれは僕には向いてないなと思い始めました。ちょうどその頃、日本初の心臓移植を手がけた心臓外科医、和田寿郎先生のご活躍を知りました。北大出身で、アメリカでの移植研究と実践を経て帰国し、当時は札幌医科大学の心臓外科教授でした。僕も心臓移植を手掛けてみたい、卒業したら心臓外科医になろうと精神科から転換を決めました」

 

ドーハで思い知った事実、「世界で活躍するにはどうしても英語が必要」

1978年11月 カタール国砂丘で

在学中は漠然と、北海道での研修を経ていずれアメリカ留学をと考えていたものの、卒業が近づく頃に実家から長崎への帰郷を求められます。卒業後はやむを得ず長崎へ戻り、「心臓を診るのであれば内科でもいいだろうという判断で」長崎大学医学部で循環器内科に入局しました。当時の教授は、日本における不整脈研究の第一人者、橋場邦武先生。

 

「橋場先生の下では、基礎的なリサーチよりも、大好きな臨床ばっかりやってました。とにかく不整脈のことならなんでもやりたい、知りたい、ひとつでも症例を経験して深みのある専門家になりたいと。そうこうするうち、30歳のときにカタールのドーハに行かないかという打診を受けました。これが僕にとってのひとつめの転機でした」

 

ちょうど日本初の海外石油・天然ガスプラント建設を三菱重工業が勝ち取ったタイミングでした。多数の日本人技術者、マネジメント担当者が現地に派遣されるため、その健康管理をする医師が必要とされたのです。勤務先の長崎市立市民病院の目の前に三菱重工業の工場があり、上司が三菱重工業の重役と親戚関係にあったことから、この話が舞い込んできたといいます。

 

「先生、私が行きます、とすぐ手を挙げました。当時の中東は比較的情勢が安定していた時期でしたので、妻と子ども2人を連れて1年間ドーハで過ごしました。でも、ショックだったのは英語です。これまでじゅうぶんに勉強してきたつもりだったのに、実際現場に出てみると意思の疎通が本当に難しくて、ほぼ役に立たずで」

 

この経験が語学習得への強い動機になりました。カタールでの1年の勤務を終えた後、家族とともに1か月半ほどヨーロッパを車で巡り、ロンドンから家族を先に帰国させたあとに単身でロンドンに4か月残り、英語学校で語学を学びました。

 

「次のステップに進むためにはまずは英語を勉強しないと、とてもじゃないが世界を相手に仕事ができないと感じたのです。実際、ここで英語を学んでおいたことが後で2回の留学を決断した際に大きな武器になりました」

 

ロンドンからそのままフィラデルフィア。長崎に戻り、のち北海道・十勝へ

1984年8月 英国、ロンドンのウェストミンスター病院の前で

帰国後は長崎大学に戻り、恩師の勧めで医学博士号取得に向けたリサーチを開始します。再び「大好きな」臨床研究を中心に取り組み、大学に在籍したまま34歳で再びロンドンへ1年間留学、臨床に従事。続けてアメリカ・フィラデルフィアへ2年間留学し、今度は基礎的な生命科学研究に取り組みました。1986年、37歳で帰国します。

1986年4月 米国・セントルイスの国際学会で研究発表

「帰国して長崎大学で講師になりました。このまま大学にずっといるのかなと思っていたのですが、1991年に恩師が定年退官を迎えると、後任人事で混乱が起きました。僕はとにかく争いごとが大の苦手で、居心地の悪さを感じていたそのタイミングで北大の先輩から声がかかりました。全く何の縁もない北海道・十勝にきてくれないかと。しばらくは悩みましたが、いや、これはご縁だなと決心を固め思い切って家族を連れての移住しました。42歳でした」

 

同じ北海道とはいえ、大学時代を過ごした札幌と異なり、十勝は太平洋側の気候に属します。雪の量も晴天の日数もまったく違う、完全に見知らぬ土地ですが、満岡先生は1991年に十勝管内の大樹町にある病院の院長に就任。そこから約6年間にわたって地域医療の再建に取り組みます。

 

「突然の赴任ではありましたが、僕には長崎に暮らし、その後3つの国での医療を経験して捉えた、僕なりの地方医療のビジョンがありました。気候が厳しい土地ほど良質な医療の提供は必須、なぜなら住人に頼る先がなくなってしまうと、結果的に住む人もどんどん少なくなってしまいます。自治体が優先的に税金を投入すべきインフラのひとつが医療なのです」

 

満岡先生自身も医療の質向上と経営の合理化に努力を重ね、それまで累積していた病院の赤字額を半分まで縮小しました。しかし折からのバブル崩壊の波もあり、自治体の考え方とは必ずしも一致しない部分も出てきます。

 

地域の医療改善に尽力し、49歳を迎えた満岡先生は、「ここまでじゅうぶんにがんばってきた。ここで自分の医療にかける情熱を燃やし尽くすよりも、新たな道を探そう」と思い至り、開業を決意します。

 

つづき>>>1/3は突然死、1/3入院中死去、残る1/3がどうにか退院だった。心筋梗塞に向き合い続けた医師が予防医療を志す明確な理由「救える命には限りがある」

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