鋸引きという残酷な極刑も!「不倫が死罪」にもなった戦国時代。『豊臣兄弟!』秀次(山田涼介)は秀吉の側室を奪うのか
不倫をすれば死罪
戦国時代、男性は側室(正妻以外の妻)を抱えられたり、男同士の恋愛が珍しくなかったりと、性的規範がゆるやかな面もありました。日本を訪れたキリスト教宣教師の中には、性風俗の自由さにおどろいた人もいるとも伝わっています。
しかし、当時は不倫が厳しく禁じられ、密懐(びっかい)と呼ばれ、重い罪として扱われていました。戦国時代に武士の不倫がなぜ死罪に値するほどの重罪として扱われたかというと、その起源は鎌倉時代にまでさかのぼります。鎌倉時代に制定された全51条からなる『御成敗式目』には、不倫した男女に科すべき罰則が定められています。
・所領の半分を没収
・仕事は解雇
なお、財産がない場合は遠流となります。遠流とは、島などに流される刑罰のことです。
そして、室町幕府になると、不倫を犯した者に科される刑罰は、酒屋を営む夫婦の事件をきっかけにさらに厳しくなりました。酒屋の妻が武士と不倫し、夫が妻の不倫相手の武士を斬り殺す事件が起こりました。武士の家族は酒屋の男に仇討を試みたものの、幕府は「不倫した妻を死罪にすべし!」と命じました。この裁きが基となり、不倫を犯した男女は死罪に処されることが一般化したのです。
義理に反した男女関係の代償は恐ろしすぎる
三好長慶の被官・和田新五郎と足利家の乳母(侍女という説もある)の不義密通が発覚し、新五郎は一条戻橋で鋸引きの極刑に処されました。鋸引きとは、罪人を首だけ出した状態で土に埋め、通行人らに鋸で少しずつ首を挽かせるという残酷な刑です。すぐに死ねず、長く苦しむことになります。鋸引きは戦国時代の極刑の1つですが、公的記録に残る初期の事例として、新五郎の処刑が知られています。
不義密通を犯した代償として命を失うだけでも恐ろしいのに、長きにわたって激しい痛みを味わいながら死ぬというのは、あまりにも過酷に感じます。ただ、現代においても不倫はパートナーだけでなく、家族や周囲の多くの人を巻き込む事態を招きます。人の命や資産を直接奪うものではないにせよ、その被害は想像以上に大きいのかもしれません。
なお、戦がなく、比較的平和なイメージがある江戸時代においても、不倫を犯した者は死罪に処されることも珍しくありませんでした。
▶秀吉は甥っ子に、好きな女を奪われた!?
スポンサーリンク
















