夫は自害という説も……。離縁させられたあさひだけではない!政略に翻弄された戦国の姫たちと秀吉の母・なか
黒田長政はいとと離婚し、家康の養女を妻にした
蜂須賀正勝の娘であり、秀吉の養女であるいとは、黒田官兵衛の息子である長政の正室でした。それにもかかわらず、関ヶ原の戦いを前にした時期に、長政は徳川家康の養女・えい(家康の異父妹の娘)を正室として迎え入れたのです。このとき、長政といとの間には4歳になる娘・きくがいました。
長政はえいと結婚し、家康との関係を強固にするために、いとと離縁したのです。婚姻関係を解消されたいとは阿波の実家に帰され、のちに出家し、「宝珠院」と名乗りました。蜂須賀家と黒田家はしばらく疎遠になったといわれています。
戦国時代の女性は自分に妻として落ち度がなかったとしても、“〇〇家との関係を強固にしたくなった” “嫁ぎ先と実家の関係が嫌悪になった”といった理由で、実家に帰されることは多々ありました。
豊臣秀吉の死から約2年しか経っておらず、豊臣家から厚い信頼を得ていた大名・正勝の娘であっても、政略結婚の犠牲となり、悲しい運命は避けられませんでした。
当時の女性がこうした離縁をどう思ったかは資料がないため分かりかねますが、家(実家)に従うのが一般的で、反抗したという話は聞きません。
<参考資料>
入澤宣幸『大判ビジュアル図解大迫力!写真と絵でわかる日本史人物ナンバー2列伝』西東社 2014年
二木 謙一 (監修) 『図解戦国合戦がよくわかる本: 武具・組織・戦術から論功行賞まで』PHP研究所、2013年
楠戸義昭『女直虎が救った井伊家』ベストセラーズ、2016年
この記事は
アメリカ文学研究/ライター
西田梨紗
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