親と友達のようになんて、とんでもない。住職が明かす親と子の関係
自分にとって一番近い関係である「両親」。でも、小さい頃から、ぶつかってばかりいて、ちっとも理解し合えない存在になってしまっている人はいませんか?
たとえば、「小さい頃から、父親とは話もできず、何かあれば叱られたり、用事をいいつけられ続けてきた」。
もう就職し、実家からも離れているのに、まだ自分は苦しく、幸せを感じられない。これは親のせいだと感じ、離れてもなお苦しんでいる人がよくいます。
中には、親の存在自体が許せないと、恨みをさらに悪い方向に持ってくる人もいるようです。
どうすればいいのでしょうか。
乗り越えるべきもの
結論から言うと、親は「乗り越えるべき目標」ではありますが、友達ではありません。
なぜかと言うと。
私たちのご先祖は、数千年前から農耕を生業としてきました。同じ農業を通しての経験値では、子は親にかなわないわけです。
農業や漁業は、ある意味、職人的で経験がものを言うので、親の方がある程度有利です。しかし、体力が衰え、子供が経験を積んでいくと、あるところで逆転が起こります。
母親と娘はというと、江戸時代は結婚も30分歩けば着くところに嫁ぐような感覚だったので、地域の関わり合いを母親から学びました。
やはり、同じ目標を持つ、越えるべき存在なのです。
が、現代は、親と仕事も違えば、受けた教育も異なります。はっきり言って、越えるべき存在ではなくなってしまった。
もしかしたら、大学を卒業した時点で越えたと思っている勘違いしている新入社員もいるのではないでしょうか。
何か言われても素直に聞けないのは、そのためです。ましてや、真剣にぶつかる必要も実はないのですから。
いずれは乗り越えずに現実を突きつけられる
ライフスタイルが違う親と、ぎくしゃくしながら何年も過ごしていることでしょう。しかし、その状態には突然終止符が打たれます。
75歳にもなると、両親は、病気をしたり、認知症になったりして以前の両親ではなくなってしまいます。どれだけ、小言を言ったり憎まれ口を言っていても、それもできない日がやってきます。
そうなって、親の部屋を片付けることがあったら、収納の奥の方を探してみてください。
私は先日、認知症の母の部屋を片付けしていいて、小学校の時の絵や母子手帳、成績表などが、1つにまとめられている袋を発見しました。大切にとっておいてくれたんですね。
あー、親とはそういうものかと、降参するしかありません。
違う職業、違う生活をしていて、両親は、子供の生活が想像できないでいて漠然と不安なのかもしれません。だからつい小言も多くなるのかもしれません。
ボールは悪くない
ここにボールがあるとします。なぜか、できた時にサイコロ型ではなくボールなのです。
このボールが、たまたま坂を転がって、たまたま池に落ちたとしましょう。
池に落ちたのは、丸いボールに生まれてきたからでしょうか?
これがゴルフなら、「丸い」「ボール」以外にもたくさんの条件があって、結果的に池に落ちたことになるでしょう。
少なくとも、ボールであることは、池に落ちる決定的な原因ではないのです。
決定的な原因は、池のある坂にボールが落ちたことです。
それが納得できたら、同じような次のたとえです。
大学に入れなかったこと、就職でうまくいかなかったこと、友達とうまく付き合えないことなどは、全て親の責任でしょうか。極端な例では、生まれてこなきゃよかったという考え。
これは、先ほどの例で、ボールじゃなきゃよかったという答えとイコールです。でも、大切なのは、「ボールでなければゴルフはできない」ことです。
人に生まれてきたことは、悲しみの決定的な原因ではありません。
それより最近の出来事で決定的な原因があるはずです。それは何かは、人それぞれです。思考の癖を見直してみましょう。
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