挨拶は出会った瞬間に決まる。禅住職が教える極意は「○○いれず」

 

会社で、コンビニで、廊下で、エレベーターで、路上で、駅で。

 

知り合いを見かけたとき、この人に挨拶をしようか、それとも気づかないふりをしておこうか、迷うことってありませんか? それが、気まずい相手だったりすると、なおさらです。

 

こちらから挨拶をしたのに、相手はしてくれなかった。人間関係が大きくこじれる前に、必ずこのような気持ちに悩まされるものです。

 

禅寺では、こんな人間関係に対して、ただただ挨拶することを勧めます。

 

「挨拶」は、禅の言葉です。挨も拶も共に「攻める、迫る」といった意味があります。なんで、人と会った時に「攻める、迫る」なんてことが必要なのでしょうか。

 

例えば、いきなり出会い頭にジャンケンをするようなものです。

 

その瞬間に、主(取り仕切る立場)となるか、客(受け入れる立場)となるか決まってしまうのです。

 

先日のトランプ大統領の別荘での会談では、さすがの習近平国家主席もトランプ流の挨拶の仕方に飲み込まれているような感じを受けました。

 

それが、出会った瞬間に決まるのです。

 

間不容髪(間髪を容れず)

 

挨拶の極意は、間髪を容れずです。冒頭のように挨拶をしようか、どうしようか相手の出方を見ているのは、一番よくないです。間に髪の毛も挟まらないほど、即座に素直に行わなければいけないとされています。

 

禅の言葉に「無」と言う言葉が多く使われていますが、これは物質的にないと言うことを表しているのではなくて、有ると無いを離れた絶対的なものだと言われます。

 

例えば、会社の廊下に親指大のゴミが落ちているとします。多くの人が通り過ぎる中、ある新入社員がそのゴミを拾いました。

 

誰に拾えと言われるわけでもなく、できるその行動は、有るとは言えずどこかに「ゴミが落ちていたら拾う」という気持ちが存在しているからなのです。

 

けれども、いつもいつもゴミのことばかり考えているわけにはいかないでしょう。毎日覚えることが、いっぱいで、ついゴミを目にするコンマ何秒か前まではゴミのことなんて意識していなかったはずです。それでもゴミが落ちていたら自然に体が動くと言うのは、その気持ちが無いとも有るとも言えない状態で、無意識に動いた行動と言えるのではないでしょうか。

 

このことは、挨拶にも言えますし、他のいろいろな行動をとるときの教訓ともなります。気の利く人とは、この考えてやるのでは無い行動パターンが豊富な人と言えると思います。

 

京都の妙心寺の開山さま関山慧玄禅師は、妙心寺に入られる前、大変粗末な庵に暮らしておりましたが、雨漏りがひどかったので弟子に「何か持ってこい」と言いました。

 

一人の弟子は、考える間もないほど素早くザルを持ってきました。もう一人の弟子はいろいろ探し回った挙句に鍋を持ってきました。

 

関山慧玄禅師は、ザルを持ってきた弟子を褒めて、のこのこ鍋を持ってきた弟子をひどく叱られた、という話があります。

 

間髪容れず、ザルを持って行った時点で理屈を捏ねまわさねばならないのは、関山禅師の方になったのです。

 

挨拶も企画も、シンプルにしていったほうが上手くいくこともあるのではないでしょうか。もう一度普段の生活で考え込まなくてもできることを増やしてみたらいかがでしょうか。

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