「これが私の顔?」病魔で激変した自分の容姿。60歳が年商7億円を捨て、もう一度本当の自由を手に入れるまで

2022.12.05 WORK

50歳を迎えたある日、人生を二人三脚で歩んできた最愛のパートナーが急逝。けれど、悲しみに沈む暇もなく、パートナーがいてこその事業は立ちゆかなくなり、2億円の借金が両肩にずっしりとのしかかってききます。前編記事『「ただの医者の妻でしょ?」50歳で夫に世を去られたマダムが思い知った「この世の地獄」と栄光』ではそんなエミチカさんの事業の漕ぎ出しまでを伺いました。後編では人生の底から這いあがる過程を伺います。

無謀でも海外に挑戦するか、このまま三重に戻って負け犬として暮らすか。答えはわかっていた

海外進出にも舵を切った。

夫の急逝から数年、ゼロから立ち上げた美容ビジネスは広がりを見せていたものの、負債は1億円を超え、方針変更の必要性を感じたエミチカさん。頭打ちになっているサロンビジネスを手放し、大きなヒットにつながらない美容商品の売り方を変えていこうと「海外進出」に舵を切ります。

 

「日本では売り上げが頭打ちになっていることを感じた私は、アジアに進出することに大きな可能性を感じたのです。このとき幸運だったのは、海外進出を支援するプロジェクトがちょうどあったこと。応募して選ばれると、香港で開催されるアジア最大の国際美容市へ出展できます。ただし、狭き門ですし、たくさんの応募書類を書かなければなりません。『挑戦するか、三重に戻って静かに暮らすか』考えました。答えは「挑戦する」。最初は誰だって初めて。やってみなきゃわかんない。日本ではダメだったけど、海外は合うかもしれない。そんな予感がしたのです」

 

審査を通過し、初出展した香港の美容市は、1日の来場者が10万人を超える大イベントでした。香港や中国のバイヤーたちは、気になる商品があると猛烈な勢いで話しかけてきます。あやふやな英語と筆談を交えて何とかコミュニケーションを取っていくと、誰もが「明日、改めて連絡する」と名刺を残していってくれたそうです。

 

「目の回るような慌ただしのなか、『受け取った名刺の山のうち、1割のバイヤーとでも契約が交わせたらV字回復だ!』と安堵している私がいました。ところが、翌日になっても何の連絡もありません。こちらから連絡を入れると、『あなた誰ですか?』という返事ばかり。その後わかったことですが、香港の展示会では、その場で商談を進めなければならなかったのです。ブースを離れた途端、バイヤーは次のブースに心変わりしてしまいます」

 

大きな成果はないまま、わかったことは次の2つ。

 

・商売の慣習は土地や国によって違うということ

・その場で契約しなければ、「この次」はないこと

 

「大事なのは、うまくいかなかったときに、気持ちを切り替えることです。転んでも、その痛みが次につながる。想定外のことが起きるのも想定内です。そんな気持ちで、私は2回目の美容市に挑みます。香港や中国のバイヤーが求める「メイド・イン・ジャパン」の世界観を押し出し、私も着物を着てブースに立ち、ブースで言葉を交わした人とはその場ですぐにメッセージアプリでつながるようにしました。1回目の失敗から学んだことを次に活かしていったのです。そして、なんと香港と3社の代理店と契約することができました」

 

ついにアジアに進出、年商7億円と成功を収めた。しかし、あまりの無理がたたって病魔に襲われ…

激務の日々だが、やりがいはあったという。

当時、中国では日本がブームになっていた時期。「メイド・イン・ジャパンのEMICHIKA製品」に追い風が吹きました。エミチカさんは香港に倉庫を借り、中国や東南アジアへの販路を広げていったのです。

 

「こうして日本と中国各地を行き来する生活が始まりました。ただ、順風満帆とはいきません。コストを抑えるために飛行機は早朝や深夜便です。あまりの忙しさに、化粧も落とさず、靴も脱がずにビジネスホテルのベッドに倒れ込んで寝落ちすることも何度もありました。しかし、50代になって見える景色が広がっていき、冒険をしている感覚に包まれるのは心地いいものでした。ただ、私の体は知らないうちに限界に達していたのです」

 

ビジネスの拠点をアジアに移し、EMICHIKAの年商は7億円を超えるまでに。成功の階段を上り始めたところで、エミチカさんを不運が襲います。

 

「ある日、香港に向かうフライトの前に医師の友達と会いました。すると彼は、私の顔を見るなり、『体が悪いんじゃないかな?』と言ったのです。仕事がうまくいき始めているのに病院に行く時間なんてないと思っていたのですが、『すぐに病院へ』という言葉が引っかかりました。というのも、夜眠れない、食べても太らない、視界が悪くなっているといった症状を自覚していたからです」

 

それでもエミチカさんは休みを取らず、薬を飲みながら仕事を優先していました。

 

「うそでしょう?これが私の顔?」病魔で激変した自分の容姿。もうこの仕事はできないかも

突如として病魔に襲われた。入院中のエミチカさん。

「症状は突然悪化しました。渡航先で、目の奥からギリギリときしむような音が聞こえ、急に目が閉じられなくなり緊急帰国。そのまま緊急入院となりました。病名は、バセドウ病。重篤な状態でした」

 

甲状腺が腫れる、指が震える、多汗、疲れやすいといった症状に加え、大きな異常は目に現れました。まぶたが腫れ、眼球が飛び出てきたと言います。

 

「すぐに手術を受けることになりました。『右目は失明する可能性が高い』と聞かされていたのですが、なんとか失明はまぬがれました。しかし、絶望が待ち受けていました。麻酔から醒めた瞬間、『見えた』と思ったのも束の間、世界がぐ〜と歪んでいったのです」

 

何もかもが傾いて、二重に見え、視野は小さな穴から覗く程度。遠近感はなく、わずかな段差にもつまずく状態に。また、大量の投薬で体重は増加。目の形はゆがみ、顔も腫れあがってしまいました。

 

「『人にどう見られるか』を気にして生きてきた私は、鏡に映る自分を見るたびに絶望的な気持ちになっていました。また、広告塔としての役割もあります。『3年後、5年後にどうなっているかを知りたい! 私は顔が商売道具なんです!』と医師に詰めより、かつてのきらびやかな自分の写真を見せ、『元通りに治してくれるんですか?』と迫りました」

 

苦しい入院生活を送っていたある日、著名人の潔い生き方がテレビから流れてきました。その方は、今から自分の人生の「あとしまつ」を準備していると紹介されていました。それを聞いたエミチカさんの中で、ある変化が生じました。『私はこの先どんな人生をおくって、どう人生を謳歌したいんだろう?」そう考えるようになったのです。

 

「私はこの先の人生をどう生きて、どう死にたいんだろう? と考えるようになったのです。医師にどれだけ詰め寄っても、わからないものはわからない。それなのに私は『いつ治るの?』と問い詰めている。でも、この先の生き方も、死との向き合い方も、結局は自分で決めるしかない。私はこの日から、前向きに治療に向き合うようになりました」

 

私のこの人生、元には戻らない。でも、未来は、自分の行動はきっと変えていける

回復後のエミチカさん。

複数回の手術を受け、少しずつ視力は戻っていきました。でも、今もエミチカさんの視野は狭く、首を動かさないと横方向は見えないそうです。

 

「でもそれは、体を横に向ければ解決すること。望んでも元には戻らないのだから、行動や習慣を変えるしかありません。容姿も様変わりしたので、自分を広告塔にしたブランディングもおしまいにしました。変わってしまった顔も変えられません。でも、私の考え方は変えられる。事実を変えられないのなら、苦しみから抜け出す答えを見つけようと考えました」

 

そこで、見えてきたのはこんな自分像でした。

 

・自分の見た目を必要以上に気にしていた自分

・人の評価を気にして頑張りすぎていた自分

・他人のものさしで100点を目指そうとしていた自分

 

「5回の手術を乗り越え、再び自由に動けるようになったとき、私は長年抱えていた人からの評価『100点プレッシャー』をようやく手放し、手ぶらになりました。せっかく手ぶらになったのだから、これからはすべて自分基準で一から決めていく。人に笑われようが、私は私の人生を生きるんだ! と。そう決めたら、情熱が湧いてきました。命ある限りもっと世界を知りたい。そうだ、憧れていたモナコに移住しよう! 雷に打たれたかのように、そんなひらめきが思い浮かびました」

 

ずっと憧れていたモナコ。60歳の私が人生をやり直すのならば、そこ以外は考えられなかった

モナコはずっと憧れの地だったという。

手ぶらになって60歳目前から人生をやり直そうと考え、体調のいいタイミングを見計らってモナコに旅立ったエミチカさん。現地に渡り、モナコの中心街・モンテカルロに滞在しながら、移住するのに必要な条件や手続きを調べ、現地に暮らす人とのつながりを作ろうと動き回ります。

 

「以前の私なら、フランス語を完璧に話せない恥ずかしさで身動きが取れなかったかもしれません。でも、手ぶらになった私に怖いものはありません。『ここに住みたい』という思いを全身全霊で語っていきました。すると、素晴らしい出会いに恵まれたのです。その人とは、マダム・フローレス。今私が暮らしているメゾン(住宅)のオーナーです」

 

エミチカさんはモンテカルロで、とても魅力的なメゾンと出会います。しかし、そこは王宮前の区画(パレスサイド)で、どれだけ資産があっても外国人は住むことのできない特別なエリアでした。暮らしているのは何代もモナコで生きてきた人だけです。ところがある日訪れたパーティーで、偶然にもマダム・フローレスと出会ったのです。

 

「私は彼女に、モナコで暮らしたい気持ちを熱く語りました。すると、マダム・フローレスは、ノートの切れ端に自分のメールアドレスを書いて渡してくれたのです。ところが、メモにワインをこぼしてしまい、メールアドレスは解読不可能に。目の手術の予定があり、私はご縁がなかったのかも……と、ひとまず日本に帰国しました」

 

術後、再びモナコに渡ったエミチカさん。もう日本には帰れない。そんな決意とともに、理想の住まいと思い定めたメゾンを訪ねます。しかし、マダム・フローレスの連絡先がわかりません。

 

「そこで私は、メゾンの前で終日待つことにしました。すると、幸運が舞い降りました。マダム・フローレスがメゾンから出てきたのです。私が『ボンジュール』と手を振ると、彼女も笑顔で手を振り返してくれました。まるで会う約束をしていたかのように会話が始まり、マダム・フローレスは私を部屋に招待してくれたのです」

 

エミチカさんはマダムに、この場所に住みたいと心から願っていることを伝えました。フランス語に自信がなくても、「夢を実現したい」というその一心で、抱えているたくさんの想いを頭の中で整理しながら、彼女の心に届くように工夫して、そして想いを込めて話しました。

 

マダムはそんなエミチカさんのストレートな思いに打たれたのか、「あなたがそんなに住みたいのならいいよ」と言ってくれたそうです。こうしてエミチカさんはお金では得ることができない「信頼」を得て、晴れてモナコに住めるようになりました。

 

波乱万丈の人生の末、すべてを手放して手ぶらになったら、憧れていた自由が手に入った

「モナコで生きていくと決めたとき、私は味わったことのない自由を感じました。それは、必死に守っていた価値観をすべて手放したからだと思います。母でも妻でも経営者でもなく、手ぶらの私。感じたままに生きていく私。私の本当の人生のスタートは60歳から。遅すぎたとは思いません。誰かと比較して考えるのは、もうやめました」

 

「ちゃんとしなきゃ!」「笑われるかも」「評価が下がるかも」「◯◯らしく」

 

そんなプレッシャーを手放してみると、人生は軽やかに動き出す。等身大の私のままで100%楽しんでいれば、次のステージの扉が開いていく。自身の経験からそう実感したエミチカさんは、最後に40代、50代の女性にこんなメッセージを贈ってくれました。

 

「大事なのは、自分の幸福の軸に従って選択することです。自分の幸せを素直に求めてください。他人の軸や価値基準で人生を決めるのはもったいない。あなたの心は今、何を求めていますか? 誰だって、自分に躊躇なく生きていいのです。夢や希望は大きな事ではなくてもかまいません。『今日、私は何がしたいのか?』『明日はどんな1日を過ごそうか』、そんな簡単なことから言葉にしてみましょう。あなたの人生の行く末を決められるのは、他でもないあなただけです」

 

波瀾万丈という言葉でも表せきれない50代を過ごしたエミチカさんの初めての著書『結局、「手ぶらで生きる女」がうまくいく』(PHP研究所)は、発売即重版の話題作。人生の経験から学んだ物事の考え方、移住したモナコで「セレブ中のセレブ」たちと出会うなかで感じ取った幸せな生き方など、自由に生きるための57のヒントがまとめられています。

 

 

結局、「手ぶらで生きる女」がうまくいく モナコの大富豪に学んだ、自由に生きる57のヒント』エミチカ・著 1,650円(10%税込)/PHP研究所

 

 

取材・文/佐口賢作

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