起業に大切なのはスキルより揺らがない信念、そして熱意。【ビーバイ・イー代表取締役社長・杉谷惠美さん前編】
常識や世間体を気にせず、自分らしく、自由に、自立した女性の生き方を応援する「OTONA SALONE」。
まさにそんな生き方をしている女性にせまるインタビューの第2回目となる今回は株式会社ビーバイ・イーの代表取締役社長の杉谷惠美さんのお話です。
杉谷さんは、ナチュラルオーガニックコスメ『ママバター』の生みの親であり、オーガニックアロマスパやカフェを併設したライフスタイルショップ『シンシア・ガーデン』を作った女性起業家。
すべては「植物の世界をたくさんの方に伝えたい」という想いから始まったという杉谷さんのこれまでの経緯、そして仕事の流儀をお伺いしました。
【ビーバイ・イー 代表取締役社長 杉谷惠美さん・前編】
療養生活をきかっけに植物の世界へ
——杉谷さんはファッション誌のライターとしてキャリアをスタートされたとか?
「はい、そうなんです。短大を卒業してすぐにJJの専属ライターになりました。
大好きな仕事だったし、やりがいも感じていたのですが、当時は朝から晩まで働きづめ。忙しさからか25歳のときに婦人病を患って、倒れてしまったんです。病名は子宮内膜症、しかも気づいたときにはかなり進行が進んだ状態でした」
——それまでまったく兆候はなかったんですか?
「きっとあったんだと思います。でも仕事の忙しさにかまけて自分の体が発するSOSを無視してしまったんでしょうね。
その結果、手術と入院を余儀なくされて。
そのとき、ふと考えたんです。“なんで私は病気になってしまったんだろう?”って」
——思い当たることはあったんですか?
「子宮内膜症って遺伝の病気じゃないんですよ。原因は解明されていませんが、ストレスや生活の乱れも要因になるとされるようです。
振り返ってみれば当時の私の食生活や睡眠時間はめちゃくちゃ。体にいい生活とはほど遠い生活をしてました。
それが婦人病を起こしたとは限らないですが、別の病気になってもおかしくない生活習慣だったんですよね」
——入院してやっとはじめて自分の体と向き合えたんですね
「はい。仕事から離れて時間ができた分、考える時間ができたんです。
そこで手術をして内膜症は落ち着いたけれど、いつ再発するかわからない。それにホルモン治療の副作用も出始めて、このままでいいのだろうかという疑問がわきました。
そのとき藁にもすがる思いで始めたのが漢方や、アロマ、フラワーエッセンスなどありとあらゆる植物療法だったんです」
ナチュラルライフとは昔から伝わるシンプルな暮らし方
——植物療法というと、具体的にはどんなことをしたんですか?
「体質改善しない限りまた病気になってしまうと思ったので、まずは食生活から変えました。
ちょうどそのときに通っていた漢方の学校で“土地のものを食べなさい”と教えて頂いて。まずは食べているものを見直すことから始めました」
——土地のものというと…?
「難しく考えることは全然ないんです。例えば北海道で採れるじゃがいもには体を温める作用があって、沖縄で採れるゴーヤには体を冷やす作用がある。
その土地で採れるものがその土地に住む人の体に一番適してるんですよね。だから日本に住む私は日本で採れたものを食べる。その土地に逆らわないことが一番カラダにいいんですよ」
——自然派療法というと選りすぐったものを食べなきゃいけないと思っていました
「私もそうでした(笑)。でもナチュラルライフってとってもシンプルなんです。
例えば冷や奴には生姜やネギを添えますよね? それは体を冷やさないための工夫です。おばあちゃんが教えてくれるような暮らしの知恵、それがナチュラルライフの基本なんです」
——当たり前すぎて気づきませんでした!
「そうなんです。私も最初は『そんなことでいいの!?』って目からウロコ(笑)。
実はナチュラルライフとか、オーガニックって難しく理論で考えることじゃなくて、ずっと昔から伝えられて来たことなんですよね」
この素晴らしさをみんなにも伝えたい!と起業を決意
−−その気付きが起業へと繋がるんですか?
「はい。実際、植物療法を取り入れて1年ほどするとびっくりするくらい体調がよくなりました。
それにちょうどそのとき、私は成人性アトピーも併発していて、刺激のあるお薬やクリームは一切使えませんでした。
そこで経皮吸収するものをすべてナチュラルプロダクトに変えてみたら、アトピーも改善されて。この植物の素晴らしさを周りのみんなにも知って欲しいと思いました。
私は自分の身に起こることはいいことも悪いことも意味があると思っていて、病気になったことも植物の世界に出会えるきっかけだと思っているんです。
それに私がたまたま病気を発症してしまっただけで、私の周りでバリバリ働いている女性達だっていつ倒れるかわからないじゃないですか。
その人たちにどういう形でもいいから、植物の世界の素晴らしさを伝えたい。幸せになってほしいと思って起業を決意しました」
——通われていた漢方の学校でスキルを磨いたのでしょうか?
「いいえ全然(笑)。漢方だけじゃなくアロマの学校にも通ったり、植物療法の先生に従事したりもしましたけど、それを検定として極めたとか、ディプロマを取ったとかじゃないんです。
先ほどもお話しましたが、ナチュラルライフとはとてもシンプルなもの。実際に農家の方にお会いしてお話を聞いたり、知識を深めていきましたね」
始まりはワンルームのアロマテラピーサロン
——そこからどう形になっていくんですか?
「伝えたいとは思ったものの、どうやって伝えたらいいのかわからない。
どうやったら広まるんだろう? って考えたとき、とりあえず会社を作ればいいんだって思って(笑)。
調べてみるとその当時は有限会社は資本金が300万円、株式会社は1000万円必要だということを知って。じゃぁ、まずは有限会社を作ろう!と27歳のときに有限会社を立ち上げました」
——すごい勢いですね(笑)
「ほんとに。今思い返せば若かったからできたんだと思います。
歳を取ると頭の中で色々考えて、動けなくなるんですが当時は勢いだけで動けた。突っ走れたんですよね」
——有限会社を立ち上げて、具体的には何を?
「代官山にワンルームのマンションを借りて、アロマテラピーサロンを開きました。
スタッフは私ともう1人の2人だけ。その方は元々、母のお友達なんです。私が病気で入院したとき、母が私をマッサージしようとアロマの学校に通ってくれたんですが、そのときに知り合った方。今でも一緒にお仕事していますよ」
——そのアロマテラピーサロンは繁盛したんですか?
「最初は全然(笑)。自分たちでチラシを配ってポスティングして…の毎日でしたね。そのときはライター業も再開していたので、二足のわらじで。
ライターで稼いだお金をサロンに当てるという感じで、なんとかひとり、ふたり食べて行けるという感じでした」
——オリジナルの商品を作るという想いはその頃からあったんですか?
「もちろん! 誰にでもわかりやすく、伝わりやすいナチュラル商品を作りたいと思っていました。でも余裕もなければ作り方もわからない。そんなとき、サロンに“カカオパック”を置かないかとガーナ人の方が営業にいらっしゃったんです。
カカオパックはとてもいいんですけど、とっても汚れてしまうのが難点。そこでその方に『シアバターはある?』と聞いてみると『あるよ』と」
シアバターとの運命的な出会い、そして苦難とは…次ページ
自分の想いが入らない商品は難しい
——なぜシアバターだったんですか?
「私がアトピーのときに使っていたのがシアバターだったので、その良さを伝えたいという思いがありました。
やっぱり商品を作るにはそこに自分の想いが込められないと難しいと思うんです。自分が救われた、助けられた、心から誰かに伝えたい…私にとってそれがシアバターでした。
しかもガーナではシアの木に触れるのは女性だけだと知って。製造工程をギリギリまでガーナで行うことができれば、当時高額だったシアバターをリーズナブルに提供できる。
そして何より女性に雇用が生まれる。それはとても循環型のものになるんじゃないかと思ってシアバターに決めました」
——それがママバターの第一歩なんですね
「そうです。商談を初めてから1、2年で念願のママバターが完成するんですが、そこまでが本当に大変でした。
ガーナの商社の方と私のお互いがいいと思っているものが違うんですよね。クオリティコントロールがとても難しいんです。それに、できるだけガーナで工程を組もうとすると製造期間が長くなる。
すると、半金を収めるので、生産してから納品までのリードタイムが長くなればなるほどキャッシュフローが追いつかなくなってしまって。まぁ、その問題は今でもつきまとってるんですけど…」
経営はほぼ無知。でも熱意だけは誰にも負けなかった
——杉谷さんは経営の勉強はされたんですか?
「ちゃんとしている人はしっかり勉強するんだと思いますが、私は全然(笑)。
だって会社を作りたいわけでも、上場させたいわけでもなかったから。でも自分のやりたいことを叶えるには個人じゃ融資してもらえないので、会社を作るしかないし、さらに事業計画書を作らないと何も始まらない。
なので、本を読みながら独学でやってましたね。最初の出納帳はお小遣い帳レベルだったと思いますよ」
——それでも何とかなっちゃうのが凄いです…
「熱意だけは誰にも負けませんでしたから。
とにかく会う人、会う人に自分のやりたいことを伝えていました。健康で安心なオーガニックプロダクトを広めたいんです!って」
——具体的には?
「当時、まだオーガニックコスメは限られた店舗でしか買えない、限られた方々にしか手に届かないものでした。でも私はそうじゃなくて、ベビーカーを押して歩いているママたちに届けたかった。
そうするにはもっと手軽に買えるように生活圏内にお店がなきゃいけないんです。それなら店舗を作って全国展開すれば話は早いのでしょうが、それでは莫大な費用がかかってしまいますよね。
だからコンビニやドラッグストアに置いてもらわなきゃって。そうじゃなきゃいけないんだ!って力説してました。きっとみんな『この子、頭おかしいんじゃないかな?』って思ってたと思いますよ(笑)。
実際、銀行に相談に行ったら『お嬢さんね』って門前払いされちゃいましたし」
見られているのは『経営者の目』
——でもめげなかったんですね
「絶対必要なことだからと思ってましたから。だから本当にたくさんの人に言って回りましたよ。ドラッグストアの経営者の方に会いにいって『置いて下さい!』ってお願いしたりもしました。
そのうち『そうだね、アメリカとかはスーパーの中に普通にオーガニックコーナーがあるもんね』って賛同してくれる人もチラホラ現れて。そのうち協力したいという方が出て来て、資金面の援助をして下さる方が現れ始めたんです」
——みなさん、杉谷さんの熱意に惹かれたんでしょうね
「あるとき、有名な投資家の方にお会いする機会があったんです。そのとき『どうやって投資先を決めるんですか?』とお伺いすると『事業計画書なんて見ないよ』って言われて。
だってみんな右肩上がりにしか書かないじゃないですか。だから見てるのは『経営者の目』だと聞かされて、やっぱり人につきるんだなと思いましたね」
ママバター第一号は在庫の山…
「でも、完成したママバターは全然売れなかったんです。もうダメかな…と思ったときに、商品を置いて頂いていたドラッグストアの女性経営幹部から呼び出されて。
『ママバターに対する想いを聞かせて欲しい』って言われたんです。
——その方はママバターの良さには気づいていらっしゃったんですね
「そうなんです。良いものだと思うのに、売れない。ナゼか。それを一緒に考えようとしてくれました。
なので私は自分がアトピーのときにシアバターに救われたこと、敏感肌の方から赤ちゃんまで、誰もが安心して使えるものを作りたかったことなどママバターに込めた想いを伝えたんです。
そしたら『そんな素敵な想いが詰まっているのに、このパッケージ、店頭販促物からはまったく伝わらない』と言われてしまって」
イメージ戦略大成功! パッケージを変えたら大ヒット!!
「当時のママバターは『モデルの●●も愛用中!』みたいなポップを作って売っていました。敏感肌とかアトピーというのは薬事法の問題があるので広告に使えないし、その売り方が1番目につくと思って。
そしたらその方が『そうじゃないと思う。パッケージを赤ちゃんにしてみたら?』って。
薬事の問題があって表記ができないから『赤ちゃんが使える=敏感肌、アトピー肌でも使えるんだな』っていうイメージをもってもらうようにするといいってアドバイス下さって」
——それで変えたんですか?
「はい。そのとき私は33歳。資金も底をついていたので、これが最後の賭けくらいの気持ちでそれまでの商品を全部回収して赤ちゃんの顔写真をパッケージにしたんです。
そしたら驚くほどのヒット。中身はまったく同じ製品なのに驚きましたね。このとき、真摯に伝えていくことの大切さを痛感しました」
——そのドラッグストアの女性経営幹部さんにお会いできなかったら、ママバターは日の目を見ることがなかったかもしれないんですね。
「経営をしているともうだめかもと思う瞬間に救世主的な人が現れるんです。アドバイスやヒントを下さったり、助けてくれる。どんなときでも最後は人。私の強みは人に恵まれていることだと思います」
軌道に乗ったなんて一度も思ったことはない
——事業が軌道に乗ったと実感したのはこのときですか?
「うーん…。今でも軌道に乗ったなんて思ってないですね。たしかにママバターがセンセーショナルな売れ方をして、ドラッグストアやバラエティショップなど5000店舗以上で取り扱ってもらえるようになって。
『これでやっていくんだ』と改めて覚悟するきっかけにはなりましたが、でもまだやりたいことの一合目にも到着してないと思っているんです。
というか、満足したら終わりじゃないですが、私がつねに渇きを持っていないとダメだと思うんですよね。まだ満ち足りていない渇いた気持ちをどう伝えて行くかを大切にしています」
——やりたいこととは?
「ママバターが売れた翌年には類似品が山のように出たんですよ。追われる立場になった。でもそれはナチュラル製品の市場が活性化されるという意味でとてもいいことなんです。
私の会社が大きくなるとかではなく、この市場をもっと大きくして行くこと。それが私のやりたかったことのひとつでもあります」
熱意だけで突っ走ってきたという杉谷さん。起業に大切なのはスキルや潤沢な資金ではなく、どれだけ人を惹きつけられるかということかを痛感しました。後編はシンシア・ガーデンのオープン、そしてプライベートと仕事の両立についてもお話をお伺いします。
(取材・文/根本聡子)
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