障がい者の母親を待ちうける「18歳の壁」。39歳女性、悩みながら叶えた「夢の職業」とは
日々が飛ぶように過ぎていくなか、自分のあり方に漠然と迷う40代50代。まるでトンネルのなかにいるような五里霧中ですが、そんななか「ほんのちょっとしたトライ」で自分のあり方を捉えなおすには、「最初の一歩」に何をしてみればいいのでしょうか。体験談をご紹介します。
<<この記事の前編:「母親になって4年、「現実を突きつけられた…」。好きを仕事にしていた35歳女性が、泣く泣く専業主婦になった理由
◾️濱嶋仁美さん
兵庫県神戸市在住の43歳、45歳の夫、12歳の長男と3人暮らし
【私を変える小さなトライ#46】後編
障がい者の母に立ちはだかる“18歳の壁”とは
「障がい者の母には『18歳の壁』というものがあります」と仁美さんは言います。特別支援学校に通う障がい児は、18歳までは見守りのために午後5時頃まで預かってもらえます。しかし、18歳になって特別支援学校などを卒業すると、それまで受けていた支援が受けられなくなり、預かり時間が午後3時頃までに短縮されます。
「一人で生活できない子どもを持つ母親は、午後3時には家に帰らないといけなくなります。働きたくても働けないという問題があるんです」と仁美さんは話します。仁美さんの長男は「食べたい」など最低限の欲求は示せるものの、「赤信号は渡ってはいけない」などの判断ができないため、親がつきっきりで生活を支えなければいけません。
「子が18歳になるまで、できるだけのことはやろう」と決めた仁美さん。コロナ禍の37歳のとき、子どもが小学校に入るタイミングで、3つのシナリオスクールに入学しました。複数のスクールに通ったのは、シナリオを書く際の行の空け方など、細かな部分がスクールごとに異なったため、様々な指導を受けようとしたためです。
シナリオライタースクールに通い始めてからは、フジテレビの「ヤングシナリオ大賞」にも応募しました。「初めて応募したときに2次まで残り、翌年も1次は通りました。通過できたんだから、私はシナリオを書いてみてもいいんだ」そんな自信が生まれたといいます。
初作品は3紙が取り上げてくれた
ある時、シナリオスクールの先生から「地元の劇団に声をかけてやってみるといいですよ」とアドバイスを受けました。そこで、さっそく地元のシニア劇団に声をかけ、「ドラマのような作品を作りたい」と提案すると、快く協力してくれました。劇団は70代の6〜7人ほどのメンバーで構成されていて、彼ら自身が体験した震災の話をもとに、ショートフィルムを制作することになりました。
カメラマンは、アメリカの大学時代の先輩に依頼しました。連絡をとると、「ちょうど今、日本にいて6月なら空いている」との返事。そこで、超特急でシナリオを書き上げ、すぐに撮影に入りました。自己資金30万円で機材やカメラマンの経費をまかない、劇団員や自分の人件費はすべて手弁当で、2023年3月に『あの日の公園1995〜震災で傷ついた私たち〜』が完成しました。
「劇団員の方々は実際に阪神・淡路大震災で被災した経験をお持ちの方々。『語り継ぎたい』という強い思いで協力してくださったのだと思います」と仁美さん。
作品を上映すると、地元の「神戸新聞」が取材に来てくれ、続いて「読売新聞」、「朝日新聞」も取り上げてくれました。持ち前の行動力で、自らNHKに電話をすると、NHKが取材に来てくれ、夕方のニュースにも取り上げられました。大手全国紙や地元新聞に掲載されたこともあり、上映会は満員御礼に。
シナリオスクールに通う仁美さんに対して、「何やってんの? いつまでそんなことを続けるんだ!」と快く思っていなかった夫の態度が、徐々に変わってきました。それまでは、平日の家事・育児を完璧にこなしていても、「土日で出かけるから子どもの面倒を見てほしい」と頼むと、「なんで土日に出かけるの?」と怪訝そうな顔をされていました。しかし最近では、「今週はどこに行くの?」と応援してくれているそうです。
2作目で、社会的なつながりの大切さを描く

『わたしの居場所』撮影シーン。右が濱嶋仁美さん
2作目で制作した『わたしの居場所』(2025年1月公開)は、震災から30年後の神戸を舞台に、人付き合いが苦手な主人公がカフェでの出会いを通して、自分の居場所を見つけていく物語です。
公開から1年以上が経ち、19カ所で27回上映されました。「震災から30年という節目に、全国で展開できる作品を作りたいと思っていました。ただ、地震だけをテーマにすると弱い。ここ10年ほど、シニアや子どもの“居場所”が話題になっているので、その視点を入れました」と仁美さんは話します。
1作目と2作目の核となる、阪神・淡路大震災が起こった1995年は“ボランティア元年”と言われ、一般市民が被災地に入り、活動を始めた年です。
「当初は防災や被災地支援が中心でしたが、そこから子ども食堂やシニアの居場所づくりへと広がり、NPO法人などの活動が活発化しています。それを作品の中でうまく表現できればと思っていました」

「彩の国市民映画祭」(埼玉)にて、災害支援部門賞を受賞。前列の真ん中が濱嶋仁美さん
『わたしの居場所』は、テレビ放映を見た「公益財団法人草の根事業育成財団」などの企業や団体の協力を受け、兵庫県神戸市、東京都調布市、埼玉県東松山市、宮城県名取市など全国各地で上映されました。
障がい児の母親でも、生きがいを持って明るく生きたい

映画の宣伝のため、ラジオ番組に呼ばれた濱嶋仁美さん(真ん中)
映画の仕事を始めると、あちこちから声がかかるようになりました。「私にとっては子どもが一番大事なのは変わりません。でも、どうしても子どもとの時間を犠牲にせざるを得ない場面が出てくるので、やるべきかやらざるべきか、いつも悩みながら葛藤しています」と仁美さんは話します。
それでも活動を続ける理由について、こう続けます。
「ふつうの人は、子どもが手を離れる60〜70歳くらいが老後だと思うんですが、私は子どもを一生見ていかなければいけない。だから、たぶん“老後”はないんだろうと思っています。ある意味、今が老後なのかもしれません。
たぶん、死ぬ瞬間まで子どもがどう生きていけるかを考えながら生きていく。だからこそ、せめて母親の私だけでも生きがいを持って、明るく生きていきたい。人から責められることもあるし、『私のせいで障がいをもってしまったのか?』と自問自答することもあります。でも、映像作品を作るようになって、子ども以外の世界にも目を向けられるようになりました」。
当初は「才能ないな」と感じていた時期もありましたが、自分が作った映画が新聞社に取り上げられ、取材を受け、賞をもらってアメリカまで行くことになった経験は、「想像もしていなかったことだ」と笑います。
今は、お世話になった人たちに恩を返しながら、「5年後くらいまでに長編映画を作り、いつか大学時代を過ごしたロサンゼルスで上映会をしたい」と考えています。かつて自主上映といえば町の片隅でひっそりと行われ、観客も知り合いの知り合い程度でしたが、今ではSNSで広く拡散できる時代です。
「自分と同じように障がい児を持ちながら64歳で映画監督デビューを果たした、山田火砂子監督のように、息の長い活動ができたらと思っています」。
制作費などは自前でまかなうことのほうが多いものの、一つの作品が次の仕事を連れてきてくれる、いいサイクルが生まれているそう。
「昔の価値観だったら許されないかもしれないけれど、こういった“障がい児の母親”の生き方があってもいいのではないか」と静かに語ってくれました。
映画や監督についての最新情報は、Facebook映画公式アカウント(@ibasho2025)にて。2026年は5月24日に神戸「糧kate」にて上映予定。能登での上映も調整中。
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白髪染めをやめた。矯正を始めた。ドライヤーを買い替えた。骨密度検査をした。習字を始めた。寝る前にストレッチを続けている。資格を再取得した。ママ友と温泉旅行に行った。2㎏やせた。子どもとオンライン英会話を続けている。断捨離した。終活してる。離婚を決意した……などなど、どんな小さなことでも大丈夫です!
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