「一家心中」寸前から難関校受験へ…残された時間はあと1カ月。偏差値52の中3男子が「東大」を目指した理由とは
一家心中の夜に
「た、ただいま……」
中学3年生の1月、とある平日の夜のことでした。学校の授業が終わり、僕は家に帰りました。
普段は家に帰ると、玄関には明かりがついていて、キッチンからは母の料理をする音が聞こえるのが、僕にとっての「当たり前」でした。
しかし、その日は違いました。玄関の扉を開けると真っ暗で物音ひとつしない、不気味な雰囲気が漂ただよっていました。
異変を感じながらも、とりあえず荷物をその場に置き、玄関の明かりをつけました。すると、2階にあった寝室から両親、そして妹の声が聞こえてきました。
嫌な予感がします。恐る恐る階段を登り、寝室のドアを開けました。
すると、布団の上に座っていた両親は放心状態のままうなだれ、当時小学6年生だった妹は「まだ死にたくない……」と泣き崩れていました。
「えっ……」。状況が理解できなかった僕に、父は「いいからこっちへ来い」と手招きをし、なにがあったのか、淡々と事情を説明し始めました。
「いままではお金のことで心配するんじゃない、欲しいものがあったら言いなさいと教えてきただろう?ごめんな。家計が苦しいことは薄々気付いていたかもしれないけど、もう無理なんだ。もう生活していけないくらい、お金に困っているんだ。それでさっきまで、これからどうするべきか、お母さんと話し合っていたんだ」
なぜ、このような状況になっていたのか。簡単にあらましを説明します。
僕の家族に異変が生じたのは、東日本大震災のころでした。父は大震災の影響で仕事を辞めざるを得なくなり、僕らは、神奈川県に引っ越すことになりました。
その後も父は仕事を転々としましたが、脳梗塞など複数の病気を患い、仕事を継続することが困難になっていきました。
いままで両親からは「家のことは心配しなくていい、お前は学校のことだけに専念していなさい」と言われてきました。
僕はその真意も知らずに、学校での勉強や部活のことだけを考えて生活してきましたが、実際には、そのようなゆとりもないほど、家庭の状況は深刻だったのです。
父からは、あと1カ月生きるお金しか残っていないこと、祖父母に生活の援助をお願いしていること、生活保護を受給できないか検討していること、そして、もしそれすらもできなければ、生きる道が絶たれることを、伝えられました。
仕事ができない状況はずっと続いていましたから、このような結末になることを両親は知っていたのでしょう。
それでも、最後の最後まで「家のことは心配するな」と伝えてくれていたのは、両親からの思いやりだったのかもしれません。
母が言いました。
「でもね、生活保護って、そんな簡単に受給できるものじゃないの。これって、路頭に迷ってホームレスみたいになった人のための制度でしょう?うちみたいに家族全員が生きていて、家も追い出されずに借りられているうちは無理なのよ。餓死する寸前くらいまでは、地獄のような生活がきっと続くんだよ。せめて孝弥(たかや)には、高校に行ってほしいし、お金のことは気にせずに勉強してもらいたいけど、正直このままだとどうしようもないの。だから、さっきはお父さんが1人でね……」
感情を必死に抑えながら話しているように見えた母でしたが、この瞬間ばかりは身体が震えていました。妹の泣き声が、寝室中に響き渡ります。
「ごめんね、孝弥。もっと早く言うべきだったよね。それでいまは、家族が一緒にいられるうちに、一家心中してしまうほうがマシなんじゃないかって話していたの」
そのとき布団の上には、1本のナイフが置かれていました。
▶「生きてやる」人生を懸けた挑戦への覚悟を決めた日
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