美川憲一さん 母が教えてくれたこと

モノは少なく、誰もが食べることに精いっぱいだった時代を駆け抜けてきた母親世代。
そんな母たちの生きざまには、今の私たちが忘れている「生きる力」の原点があるように思います。
ときに立ち止まり、振り返り、母を思うことは、これから歩んでいく先の人生を照らしてくれるに違いありません。
大切な母との思い出を教えていただきました。

自分を信じることと、自分をいさめることの
大切さを教えてくれた二人の母
歌手/美川憲一

歯に衣着せぬ発言と魅力的なキャラクターで、老若男女問わず大人気の美川憲一さん。
有為転変の芸能界人生を支えてくれたのは「二人の母」の存在だったと振り返ります。
今の美川さんをつくってくれた母たちの物語を伺いました。

生まれる前に父は逃げ
二人の母が育ててくれた

「私ね、生まれなかったかもしれない子どもだったの。実の母の直感のおかげで、命拾いしたわ」
過ぎ去った時間を慈しむように、美川憲一さんはゆっくり語り始めた。美川さんの母が妊娠に気づいたのは、戦後の混乱期。結婚を前提におつき合いしていた人に「赤ちゃんができたわ」と打ち明けると、男性の顔色が変わった。数日後、「ビタミン剤だから飲みなさい」と赤い包み紙の粉薬を手渡されたが、母はイヤな予感がして飲まずに捨てた。「流産を促す劇薬だったみたい。母は『飲んだわよ』と言ったけど、おなかは大きくなるじゃない? そしたらその男、逃げたの。最低よね」母は一人、長野の実家に戻って美川さんを出産する。一度だけ母は、1歳の美川さんをおぶって男性の実家を訪ねた。そこには男性の妻と子の姿があった。

撮影/橋本 哲

 

「母はショックで体調を崩して、私を育てられなくなったの。泣く泣く東京に住む姉に私を託したのよ」
美川さんを産んだ実母は、以し子さん。育ててくれた養母は、米子さん。美川さんは米子さんを実の母と信じ、近所に越してきた以し子さんを「おばちゃん」と呼んでなついた。「米子さんはしっかり者で堅実な人。以し子さんはサバサバした性格で、きっぷがいい。性格は違うけれど二人とも美人でおしゃれで、きれいなものが大好きで、歌舞伎も宝塚も新派も見せてくれた。私に革靴や半ズボンをはかせて、『きれいよ』『かわいい』と絶賛してくれました」
幸せな時間が一変したのは小学生のとき。養父が脳溢血で亡くなったのだ。友人の保証人になっていたため、米子さんが多額の借金を抱えることになった。米子さんは朝から晩まで働いて借金を返しながら、美川さんを育てた。深い愛を感じた。

 

「でもね、意地の悪いおせっかいっているのよ。中学生のとき、近所の人が私に『坊や、あなたの本当のお母さんは、おばちゃんのほうなのよ』と耳打ちしたの。驚きはしたけれど、腑に落ちた感じ。ああそうかって」
でも、米子さんに確かめることはしなかった。「養母がかわいそうだと思ったの。私、わりと大人びた子
で、けっこう気を使ったのよ(笑)」
一刻も早くお金を稼いで、二人の母にラクをさせたい……それが芸能界への扉を開くきっかけになった。以来56年。爆発的な大ヒットを飛ばす時期もあれば、仕事に恵まれない時期もあった。芸能界復帰は絶望的といわれ、どん底も経験した。それでもはい上がり、新しい魅力を身につけて不死鳥のように蘇る、それが美川憲一だ。その強さは二人の母がくれたものだと美川さんは言う。
「私の中には二人の母が半分半分で入っているの。実母からは、自由な発想や恐れを知らないパワーをもらった。養母からは周囲への気遣いや、我慢を教わった。二人の母なくして今の私はないのよ」

 

気になる続きは発売中の『ゆうゆう』2020年5月号に掲載されております。是非チェックしてみて下さい!

 

【プロフィール】

みかわ・けんいち●1946年長野県生まれ。64年大映ニューフェイスのオーディションに合格。俳優から歌手に転向し、66年「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚の大ヒット、68年には紅白歌合戦に初出場。「さそり座の女」などの大ヒット曲をもつ。99年より毎年『ドラマチックシャンソン』というコンサートを開催、新しい魅力を発信している。

 

撮影/橋本 哲 取材・文/神 素子

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